不思議な話なので、長く秘めてきたが、ようやく 書いてもいいような気がして来た。
それは、33年前 嫁に来てすぐの事であるが、この地は 鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争の始まりとなった戦いで戦士した志士が 買い物から帰った 私だけの午後に 奥の部屋を開けたら、ウッソウとした森のなかに 座っていた。
霊媒体質のため必要な件だけ見える。
映画で見るような、青年志士の姿である。いかにも下級武士といったところか。
この地で命を落としたらしい。
私を真正面から見つめて、 「私達は命が惜しいと思って戦ったのでは ありません!」
そして、それだけを告げると スッと 森も姿も 消えた。
その事は あまりに奇異な事なので、どんな意味があるのか? 何を云いたいために現れたのか? 理解に苦しみながら 時が 過ぎてしまった。
既に、供養のために 一週間の水供養を行い、「お父さんとお母さんが居られる所にお帰り下さいますよう・・・・・・」と言い聞かせて、去って頂いた。
私は好奇心が強い 小さな女の子として地上に出て来た。
若い頃は点取り虫の 勉強ばかりしていた 面白みの無い 女の子だった。
社会人になり、給料を得るようになったら、給料を使い果たしてはリュックを背負い 日本中を旅する事に夢中であった。
やがて、絵を描くひとになりたいと 両親に許しを得て、専門学校に通った。授業料と食費は両親から出してもらった。少しの貯金は、材料日や交通費に使った。
卒業と共に 紹介で就職先も 即 決まった。
中振袖の着物に 素描で 絵を描く 仕事にありついた。
すべてを捨てて、事に当たったからか、最強の 素晴らしい師匠にも 出会えた。
仕事に夢中で 又、スケッチにも 十分過ぎる研鑽を重ね、追加注文が押し寄せるほどの幸せな時期があった。
しかし、度が過ぎたのだろうか、体力に自信の無かった私は、名前のわからない症状に陥り、退社せざるを得なかった。
師匠に迷惑をかける事は 避けたかった。
師匠の家に お部屋を借りて、自炊しながら、仕事に専念していた。
その後、両親を呼び寄せ、借家で暮らしていたので、退社した私は 浪人生活で 両親の年金で食べさせてもらいながら、制作に専念していた。
社会人らしくない 一番 辛い 時期だった。(36歳~39歳)
やがて、結婚の話が 知り合いから 奨められ、見合い結婚した。
主婦業をしながら、食べていく! 選択肢は 無かった。両親は高齢になっていたので。
相手は、22歳 年上 の 3度めの結婚の 半年の患いで妻を亡くした かわいそうな人だった。
こちらは 縁が無くて、もう結婚は出来ないだろうと とうに諦らめていた。
見合いの席で、専門学校の恩師であった事から、お互い ものつくり
の観点からは 理解し易い人だった。
22歳違うことは、戦前の生まれであり、戦争体験もある、61歳のおじさん でもある。
しかし、社会的には、陶芸家として ほんの少し名の売れた存在だった。しかし、お金持ちでは無いが。
不器用な同志 とでも言おうか、お金では 無い 価値観 を持ちながら、制作に重きを於いた 同志として 尊敬できた 作家であった。
生涯、 先生 と しか 呼んでいない。
夢中になって日常生活と 制作の日々を 過ごしてきた人生であったが、青年志士の言葉 が 今頃になって 彼は、否、神様は 何を伝えようと 現れたのか? 謎めいて 疑問なのである。
確かに、私は身体が弱いので、自身の欲を コントロールしながら、嫁の条件としては いい難い 朝早く起きるのは苦手です、という事を明示したので、しっかり、守ってくれた。
無理が出来ない 身体 を いといながら 小心的に 生きてきたが、 それでも、命を燃やしながら 生きて来たと思っている。
これ以上、何を 要求しておられるのか?
しかし、17歳 年下の義息子の 若い死 は 何を意味するのか?
彼の存在は とても 重要だったのに、 心の中で 頼りにしていたのは、 事実だ。
自由な時間を 与えられた ワ・タ・シ
素晴らしい人達に出会えて 豊かな人生を 頂いた ワ ・ タ ・ シ
には、やはり、何かをやらなければ と 思う。
戸惑いながら、 しかし、 前を向いて、 真の愛情 を 形に成して、
置き土産をしたいと 希望する。
青年志士も 熱い涙 の この気持 で 許してくれるだろうか?