阪神淡路大震災から22年 | アメリカンショートヘア リベの部屋

アメリカンショートヘア リベの部屋

念願の猫との生活。アメリカンショートヘア 「リベルテ シェリーエ」(リベ)との日常を綴ります。フランス国歌の一節で、「愛する自由」という意味です。

1995.1.17

阪神淡路大震災

 
東遊園地に行ってきました
(遊具はないのになぜか公園ではなく遊園地と呼ばれています)
 
市役所の入り口に花時計があります
季節の花が植えられています
 

 

当時本館だった市庁舎

8階建ての建物の6階部分がつぶされ

残った5階までを2号館として使われています

 

新しい市庁舎は30階建て

最上階には無料で上がれます

 
 本館と旧庁舎
 
震災関連のイベント
 
毎年、焼香・記帳・募金をします
1995年1月17日5時46分、震度7の揺れに襲われました。
新築したばかりの家にも亀裂が入りましたが、家族は4人全員無事でした。
私は、22年前は宝塚の学校に勤務していました。阪急電車・阪神電車・JR3本とも不通となり、通勤手段がなくなりました。学校も休校となり、息子や娘の学校も休校になりました。
電気・ガス・水、ライフラインのストップ。電気が戻るまで寒い思いをしました。水はとても重く、容器も無くて、ごみ箱にビニール袋をかけて使いました。ガスはなかなか通じませんでした。でも、全国各地の車のナンバーを見て、応援に来てくださっている方々に感謝しました。
普段いかに便利な生活をしていたかを思い知りました。ガス会社を始め、救援物資を運んだトラックが瓦礫を積んで帰っているという話を聞きました。
 学校が再開されるまで、いてもたってもおれず、近くの小学校で初めてボランティアをしました。印刷機の使い方がわかるので、自主的に伝言メモ用紙を印刷し、伝言板を作り、喜ばれました。1校に2000人くらいの方がいらっしゃり、数日間は食料もなく、大変でした。
 学校が再開されてからは、南の交通手段が断たれたので、北回りで片道3時間かけて通いました。勤務先も避難所になっていたので、救援物資の配布など、避難者の支援にもあたりました。
 震災の年は6年担任でした。1月17日は中学入試前で、一旦締め切られていた学校が、再募集をしたため、追加の調査書を書くことに追われました。同じ学年の同僚はアパートが全壊し、逃げ出すときに利き手をケガをし、字が書けなくなっていましたので、彼女のクラスの子どもの分を代筆しました。彼女は2階に住んでいて、1階で何人かの大学生が亡くなったので、実家に帰らず、避難所から通っていました。このころ、自分だけが楽をすることに、罪悪感みたいなものを感じていました。みんなよく我慢しました。卒業式は体育館ではできないと思っていましたが、避難されている方が教室に移ってくださり、体育館で行いました。神戸では青空卒業式が多かったようです。
 22年経っても昨日のことのように記憶がよみがえります。あの揺れは今も覚えています。
 日常のありがたさに感謝し、前向きに生きていきたいと思います。
 
 長々とした文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。