小林一茶が50才で江戸から柏原に帰住してから、善光寺、長沼、浅野、高井郡など北信濃を足繁く行脚し、俳句の師匠としての地位を築いて行きます。小布施(六川)では梅松寺住職、椎谷藩士、豪農の寺島家などが一茶門下に入り一茶は頻繁に出向いています。

 この句は「七番日記」の文化10年(1813、一茶51才)9月に詠まれています。この年は正月に弟との相続争いが決着し、5月22日に「六川ニ入」とあり、大綾(椎谷藩士)と知洞(梅松寺上人)と三吟歌仙を巻いています。(「志多良」所収) 6月から9月にかけて善光寺の門人の上原文路宅で高熱を出して75日間も文路宅で寝込むという事態になりますが、幸いにも回復し、11月23日に再び「六川ニ入」とあり5日ほど滞在しています。

 小布施町は明治22年に小布施村・福原村・大島村・山王島村・飯田村・北岡村・押羽村が合併して小布施村になり、昭和29年に町になっています。江戸時代後半はこの地域は椎谷藩(五千石)の傘下にあり、昔から栗の名産地として知られ将軍家に献上されるまでになっていました。現在、六川地区には「椎谷藩陣屋跡」があります。

 



  からめては 栗で埋りし 御掘哉   一茶(「七番日記」)

 この句はその陣屋のからめて(裏門)に年貢米の代わりだった「栗年貢」が山と積まれた様子を詠んだものではないかと思います。椎谷藩主が堀氏であることから「御掘哉」と言い掛けたのでしょう。

 飯田地区は小布施町の南西に位置する善光寺平の肥沃な平地で、昔から栗を栽培する農家が多いことからこの句を選んで句碑に刻んだと推察されます。

 



 句碑の前には「小布施中学校」の木札がありました。中学生が花を植えたり掃除をしたりして管理しているようでした。





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(長野在住 院長の親父ブログ)