長野県小布施町は江戸初期は広島50万石から配置換えになった福島正則の領地でした。福島正則は広島城の石垣を江戸幕府に無断で修理をしてお咎めを受け、1619年(元和5)、減封・移封(45万石の減給!)されて来たのです。小布施はその後天領となり、更に1792年(寛政4年、一茶30才)からは越後国椎谷藩の領地(5千石の飛び地)となって六川陣屋が設置されました。陣屋は当時千坪近い敷地でしたが今は屋敷の北側にあった稲荷神社や石垣がその面影を遺すのみとなりました。 → 陣屋の見取り図









 稲荷神社の参道入口に当時の大庄屋で小林一茶の門人であった寺島夏蕉の家があります。庭にある見事に刈り込まれた槇の高木はかなり遠くからもそれと判る威容を誇っています。

 稲荷神社の前に一茶の句碑がありました。

  けふばかり 別の寒(さむさ)ぞ 越後山   一茶(「七番日記」)

 「七番日記」の文化10年(1813、一茶51才)閏11月に所収の句で、前書きに「悼」とあります。同月23日の日記に「廿三晴 六川ニ入 大綾在所越後国母去十七日ニ没」とあるので大綾の母の死を悼んで詠んだ句と判ります。

 大綾は椎谷藩の藩士で一茶の門人でした。実家は越後国です。訃報を聞いた日は寒さも身に沁む閏11月。心の淋しさも手伝って格別の寒さです。北西に見える越後山(妙高山)の向こうでは大綾が悲しみに暮れているであろう、と詠んだものです。

 小布施からは北信五岳(飯綱山、戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山)がきれいに見渡され、とりわけ一番標高が高い妙高山(2464m、新潟県妙高市)は早くから冠雪します。

 




 「七番日記」には大綾について8ヵ所で言及しています。初出は文化10年4月「十九晴 大綾仝道長沼上ミ町ニ入」とあり、一茶が柏原に帰住後間もない頃から旅を共にする程の仲になっていたようです。そして以前紹介した「知洞 大綾ヨリ南錂一片」。又、「大綾ニ文通出」「大綾ヨリ文通返書呈ス」等は子弟の親密な関係が読み取れます。「大綾皈(帰)」「大綾入来」は大綾が越後国に「一時帰国」したのでしょうか。そして文化12年4月に「卅晴 寒 知洞 大綾 武三善光寺カブキ一見」が最後で、それ以降大綾は登場しません。恐らく本国(越後国)に「転勤」になったのかも知れません。

 文化10年(1813、一茶51才)の一年間の記録である一茶の句文集「志多良」には一茶と知洞、大綾が巻いた歌仙が二つも残されています。 

 又、文化12年(1815年)4月には「廿九晴 御役所ニ入」とあり、椎谷藩陣屋にも出入りして玉木普請(=奉行)、俳号は其璧、とも親しく交わっていたことが読み取れます。





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(長野在住 院長の親父ブログ)