神奈川県横須賀市東浦賀の専福寺に一茶の句碑があります。一茶の初恋の人の墓地があって、一茶は少なくとも1回、文化3年(1806、一茶44才)6月に墓参りに専福寺を訪ねています。なお、市内佐島にも同名のお寺があります。
夕立の 祈らぬ里に かゝる也 一茶(「文化句帖」)
句碑にも刻まれている「文化句帖」の文化3年6月の冒頭を、少し長くなりますが引用します。
(六月)一日晴 浦賀に渡 白毛黒クナル薬クルミヲスリツブシ毛ノ穴の入
涼風も けふ一日の 御不二哉 ※
二日晴 夜雨 夕立の 祈らぬ里に かゝる也
三日晴 香誉夏月明寿信女 天明二[年]六月二日没
四日晴 金川青木町さのや五良兵衞ニ泊
五日晴 夜雨 江戸入 土用辰ノ二刻ニ入
※6月1日は富士山信仰では祭日
天明2年(1782)といえば一茶が20才の時で、専福寺に墓参りに来た文化3年(1806)は一茶44才。6月2日の彼女の25回忌の祥月命日に墓参できるように浦賀に6月1日に着いたのですが、どうしたことか命日の翌日3日に墓参りをしています。
句意は難解ですが、「祈らぬ里」は彼女の墓地のある福専寺で、一茶は祥月命日には故意に参らず遠くから眺めているともとれます。縁者による法要の日を避けてのことではないかとする説もあります。
句碑には「寿女の碑」とあり、初恋の人の名を戒名(香誉夏月明寿信女)から推測していますが、田辺聖子の「ひねくれ一茶」では「おりよちゃん」として墓参の情景を描いています。そして田辺氏は「おりよちゃん」は浦賀の俳人素栢の娘で一茶は師匠の小林竹阿にお供して素栢を訪ねた際に見初めたとしています。
実際、竹阿(二六庵)と一茶の縁は深く、一茶が28才の時に竹阿(81才)が没すると「二六庵」を継ぎ、その縁をたよって30才から丸6年間西国行脚に出かけています。
また、一茶は20才の頃に下総馬橋の裕福な油商人大川立砂の家に奉公したという伝承があり、一茶は立砂について「栢日庵(立砂)は此道に入始てよりのちなみにして交り他にことなれり。」、と立砂にひとかたならないお世話になったことを記しています。立砂は元夢の門人でしたから一茶は立砂を仲立ちにして素丸、竹阿と交わるようになった事が容易に想像できます。
一茶の女性関係では流山市の伊藤晃氏が著書「一茶双紙」で言及した「お梅」という女性について以前紹介しました。
荒川区 入れ歯と歯周病予防の こうへい歯科クリニック
(長野在住 院長の親父ブログ)