こんばんは
 
週末も安定の坐禅会でした。
今年もすてきに咲く蓮です。

 

 

今回の提唱は碧巌録第98則です。

 

話が入り組んでいて

他の語録のエピソードも知っていないと

どうやら深く理解できなそうな上に

言葉が難しいので、

提唱を拝聴してもなかなか繋がらなかったです。

丁寧に2日にわたってお話をしていただけて

やっと手元の碧巌録提唱も読む気になってきました。

 

 

第98則は、

自分は優れた禅の人であると自画自賛している

なかなか鼻持ちならない人、

天平さんという和尚さんのお話です。

 

わたしも、本を読んだり

ちょっと良いことを聞き齧ったりしただけで

全部わかった気になっちゃうので

天平さんの気持ちはよくわかる気がします。

 

その天平さんがバッサリとやられたのは

西院和尚の「しゃく(錯)」でした。

 

指を立てる、喝という、払子を立てる。。。

などなど禅にはいろいろな表現がありますが

今回の伝説の宝刀は「錯」です。

 

錯綜、交錯の錯、

漢文ではさくではなく、しゃくと読むようで、

どうやら否定の言葉のようです。

 

自分の言動にいちいち「違う、そうじゃない」

って否定されたらどうでしょうか。

 

わたしだったら、あれ?

何が間違えていたのかな

「私が」「私の」何が否定されたのだろうか

っていろいろ考えて迷ってしまいます。

 

 

さて、自分では禅をだれよりもわかっていると思っている

天平さんでしたが

西院和尚に呼びかけられたので、「はい?」と反応します。

 

西院さん、呼びかけておいて

「錯」(ちがう、そうじゃない)

と言います。

 

天平さんは何が錯なのかと

困惑してしまいます。

 

 

さらに西院さん

「私とあなた、どっちが間違っていたかな?」

みたいな比較や2元論みたいなことを

自称禅マスターの天平さんに問います。

 

 

天平さんは言葉に詰まってしまいました。

禅問答のラリーが続きません。

そこで西院さんは、うちで修行していかないか?と

親切に誘ってくれました。

 

しかし、自称禅マスターは

西院和尚のほうが間違っていると

内心思っていましたので

修行の誘いを断ります。

 

 

 

 

 

昔の禅語録の中には

喝、棒で引っぱたく、

指を立てるジェスチャー、などなど

修行者の悩みを解消する不思議な方法が

たくさんあります。

 

しかし、自称禅マスターの天平さんは

伝説の宝刀の切れ味すばらしいことや

ありがたい教えに気づく機会がなく

悲しいかな、良い師匠はいないものだと悩んでいました。

 

自分はよくわかっている、と思っている間は

なかなか学びのチャンスはないものですが

我が心の驕りや偏りに気が付くということもまた

とても難しいことなのですよねえ。

身につまされます😂

 

 

98則は、臨済さんのお弟子さんのエピソードを例にして

まだまだ続きますが

私の頭のなかで繋がっていないので

ここから先はまた来月。

 

老師の提唱を拝聴して

坐禅して考えましょう・・・

 

 

それまで面白楽しく

碧巌録を楽しみます。

 

 

 

ありがとうございます。

今日も一日、お疲れ様でした!