こんにちは
今朝も安定の早朝座禅会です。
 
ついこの間までは、真っ暗ななかお寺へ歩いて行っていたのに
だいぶ日が長くなりました。
 
昨年、綺麗に咲いていて感動した蓮の鉢が
またお寺の前に設置されていました。
 
お花が咲くのが楽しみです。

 

 

先日から、無について

「私が無になる」という思いから、私をなくさないといけない

のかなあと思っていました。

 

さてこの私を無くすには・・・

今日の目標は

まずは静かに座って息を10まで静かに数える

ことでした。

 

これもまたなかなかうまくはいきません。

 

意地になって息を数えようとしても

それは集中して呼吸をみておらず、ただ数を数えているだけになってしまいます。

 

うーん、なにか形にはめ込もうとしているなあと思います。

 

 

そんなことを考えていたところ

今日の法話はこちらのお話でした。

 

絵本 パンダはどこにいる?をもとに

自分が生まれ持った仏心の種について考えてみようというものです。

 

 

 

絵本の冒頭、パンダはパンダを見るために並んでる列から追い出されてしまいます。

べつに、パンダがパンダを見ても構わないですし

追い出されるなんてひどいではないかと思いますが

世の中には理不尽なことはたくさんあります。

 

私ならそんな社会へ恨みを持ってぐれてしまいそうですが😂

ここでパンダは諦めずに

パンダについての勉強をはじめるのが偉いところです。

パンダは悔しかったのでしょうね、と和尚さんは言っておられました。

 

理不尽なことに対する悔しさをプラスのエネルギーに変えること

闇から光へ転じる力を身につけることは

成長段階で獲得できる貴重な学びだと思います。

 

 

 

パンダはそもそも

なぜパンダを見たかったのか?

 

周りの人やニュースやSNSで可愛い、癒される、と言っているので

自分もそれはどんなに良いものかみたかったのかなと思います。

 

すなわち、どこかに存在する「なにかいいもの」を求めているのだと思うのです。

 

パンダの実物を見られなかったパンダは(これがややこしいのですが)

パンダの生態や外見、生活スタイルなどを勉強します。

知識として得たら今度は、それを実際にやって

パンダの真似をしてみます。

 

こうやってパンダは、外の誰かが分析したパンダの概念を学び、

自分の理解の範囲で実践するわけです。

パンダが鏡を使うことに思い至らない点も、

人は認識の範囲を個人の経験によって無意識に限定している事が思われて

なるほどと感じました。

 

こうやって、我の世界を基準として

外側で作られた形に自分を合わせてゆこうとしています。

 

 

自分とはどういうものなのか

という自分のついてのゲシュタルトを知らずに

なにか別のものになるために我を張ると

求める何かは遠くなったり、自分で自分を苦しめたりする気がします。

 

求める何かと自分の違い、

これにばかり目がいってしまえば

苦しくなって自分を嫌いになってしまうかもしれません。

 

自分とはどういうものなのか

心を落ち着け、自性を明らかにすること、

 

つまりパンダが鏡を使う事を思いつき

鏡に映ったものをありのままに見つめること

 

これにちょっとでも近づけたら

面白い世界がひろがるのではないかなと

また遠くにあるなにかを求めている自分がいて

まだまだじゃのう、と思いました😂


さあ、坐りましょう。

 

ありがとうございます。

よい日曜の午後をお過ごしください!