東京駅から約60分で北鎌倉駅に着きます。

 

 北鎌倉駅の次の鎌倉駅まで向かっても約60分なので、この辺りは急に思い立って行けなくはない場所になります。

 

 ちなみに、東京駅から横須賀線なら乗り換えなしで、東京駅から東海道線なら大船駅で横須賀線に乗り換えることになります。

 

円覚寺の総門

 

 「円覚寺」(※1)

 

 鬱蒼とした緑に囲まれた北鎌倉駅を降りると、すぐそこに「円覚寺」の総門に向かう階段があります。

 

 「鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。」(※1)

 

 源頼朝が鎌倉幕府を開き、三代目の源実朝の時、北条時政は初代執権となり執権政治が始まりました。

 

 鎌倉幕府は北条時政に乗っ取られてしまった訳ですが、北条時宗は8代執権にあたります。

 

 

 総門まで辿り着くと、その奥には山門、仏殿、方丈と並んでいます。

 

 ”紅葉”の散策ということで北鎌倉にやって来ましたが、”紅葉”をあれこれと撮ってみたところどれも失敗作ばかりになりました。

 

 実際の”紅葉”の色合いとは違うので残念でなりません。

 

 ちなみに、「円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の『円覚経(えんがくきょう)』が出土したことからといわれます。」(※1)

 

 

 「東慶寺」(※2)

 

 「東慶寺は鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です。」(※2)

 

 でっ、8代執権の北条時宗の妻、覚山尼(かくざんに)により開山されています。

 

 「東慶寺」は、どちらかと言えば”駆込寺”とか”縁切寺”と呼ぶことが多いように思えます。

 

 それは、「女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできました。」(※2)

 

 そんな歴史があるからですが、具体的には「寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合は妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する。」(Wikipedia)というものです。

 

 ちなみに、「江戸幕府公認の縁切寺には鎌倉の東慶寺、群馬(旧、上野国新田郷)の満徳寺がある。」(Wikipedia )

 

 でも、”縁切寺”(東慶寺)を知ったキッカケは「女に逃げられた」からではなく「さだまさし(グレープ)」の”縁切寺”にあります。(^_^;)

 

 鎌倉市岩瀬にあった会社の独身寮に住んでいた時代に休日に”鎌倉”散策に出かけ、”縁切寺”とは俗名で「東慶寺」というのが本来の寺名と知りました。

 

 

 北鎌倉駅を降りて円覚寺、東慶寺と散策すると鎌倉に向かって歩き出します。

 

 少し歩くと横須賀線の”踏切”があります。

 

 都内に転勤になり会社の独身寮を出てからは、”踏切”を見る機会がなくなりました。

 

 生活圏内にある線路はどこも”高架”になっているからです。

 

 なので、”踏切”を見ると懐かしくなり嬉しくもなります。

 

 

 その”踏切”の手前には手焼きの”お煎餅”を売るお店があります。

 

 香ばしい匂いが堪りません。(^o^)v

 

 もちろん買いました。

 

 鎌倉に向かって歩きながら食べるのが美味いからです。

 

 それに、散策する時ほどこういう楽しみがないと、つまらない。

 

 

 「建長寺」(※3)

 

 ”踏切”を渡って少し頑張って歩くと「建長寺」への案内板が見えて来ます。

 

 5代執権の北条時頼は、「祖父泰時の善政を受けて、よく政を治めたので、名君のほまれが高い。建長4年8月には今の長谷に全銅の大仏を鋳造し始め、そして翌5年(1253年)11月には、建長寺を創建して供養を行った。」(※3)

 

 総門から立派な三門を抜けると、仏殿、法堂、方丈が見えて来ますが、日本国内で見慣れている”お寺”とはどこか違うような気がします。

 

 「総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物がほぼ直線上にならび、庫院(庫裏)と僧堂(修行道場)とが三門から仏殿に達する回廊の左右にあり、浴室と西浄(東司)も三門前の左右に造られるなど、左右対称の大陸的な配置法であったことはわかる。」(※3)のですが、…

 

 実は、「中国杭州にある五山第一の径山万寿禅寺を模して、これを鎌倉の地に写しだそうという伽藍配置だったのである。」(※3)

 

 

 「柏槙の木」

 

 三門から仏殿に向かう途中には存在感のある大木があります。

 

 ”柏槙”(びゃくしん)は、「東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられ、禅寺を象徴する樹木です。」(※3)

 

 ちなみに、樹齢約760年(推定)、「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際にまいたと言われている。」(※3)

 

 

 三門の楼上にもありますが、「天下禅林」という文字を見かけます。

 

 それは「人材を広く天下に求め育成する禅寺」の意味です。

 

 察しの良いあなたは「建長寺」は”禅寺”であることに気づかれると思います。

 

 「建長寺」は、「建長7年(1255)2月に造られた梵鐘(国宝)に『建長禅寺』とあるように、当寺はわが国で最初に”禅寺”と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場である。」(※3)

 

 また、「およそ、中世を通じての寺院は、1か寺で天台宗と真言宗・浄土宗などを兼ねている例が多かったから、建長寺のような1寺1宗という浄刹はたいへん珍しかったといえる。」(※3)

 

 

 「鶴岡八幡宮」(※4)

 

 建長寺から再び鎌倉に向かって歩くとやがて「鶴岡八幡宮」に着きます。

 

 「鶴岡八幡宮」は「康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。」(※4)

 

 その後、「源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。」(※4)

 

 「頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。」(※4)

 

 そんな、約800年前に今日の”鎌倉”がつくられたのかと思うと不思議な気持ちになります。

 

 

 北鎌倉駅から「鶴岡八幡宮」まで歩くと昼食時になります。

 

 疲れて来ていたので「鶴岡八幡宮」を散策する気にはなれず「二楽荘」(※5)に向かうことになりました。

 

 昼食後の「鶴岡八幡宮」散策を終えるとだいぶ疲れが溜まります。

 

 こんな時、”人力車”に乗りたくなりますが、寝てしまいそうなので今回はあきらめました。

 

 

 ※1 臨済宗大本山 円覚寺

    https://www.engakuji.or.jp/

 

 ※2 北鎌倉 松岡山東慶寺

    https://tokeiji.com/

 

 ※3 巨福山 建長寺

    https://www.kenchoji.com/

 

 ※4 鶴岡八幡宮

    https://www.hachimangu.or.jp/

 

 ※5 二楽荘 (ニラクソウ)

    https://tabelog.com/kanagawa/A1404/A140402/14000720/