ぼこ……ぼこぼこぼこ……


耳に、無駄に大きく反響するこの音は、自分が今息を吐き出す音。


ぼこぼこ……


空に向かって、無数の泡沫が昇って行く。

今、ここにあるのは自分が息を吐き出して出来た水の泡と、静かで穏やかな空間。


初めて体感する、水の中。いや、海の中。


テレビで見るのとは全然違う。何もかもが違う。


静か過ぎて、少し怖いくらいだ。


今、自分が此処に居られるのは今背負っているタンクのお陰で、この口にくわえているヤツを放した途端、俺は消える。

人魚姫みたいに、泡になって消えるんじゃなくて、もっと醜くこの世からおさらばするのも、悪くないって思ってる。


いつもキラキラと反射して眩しく光る水面を、今は海の底から見上げてみる。

ゆらゆらとゆれる海面がやけに遠くて、不安を覚えた。


『息を止めるな』

そう言われてたけれど、俺はほんの少しだけ呼吸を止め、自らの泡を消した。


完全な静寂。


こんな静かな空間に取り残されたら……なんて考えると、無性に悲しくなる。



「私が死んだら、海に還りたいな」

「?何言ってんだよ。縁起でも無い事……退院したら、必ず行こうな」



なぁ……これで良かったんだよな。

お前は今、大好きな海の一部分になってるって、信じて良いんだよな?


あの日……お前を船の上から海に流した時、『これで良かったのか』って、物凄く悩んだし、流した後に後悔した。

泣いても泣いてもお前は帰って来てはくれなくて、遺骨も無くて、あるのは元気だった頃の笑顔のお前の写真しか無くて……全てに泣けた。


俺が生きてる意味って、何なんだろうって。

なんでお前が逝かなくちゃいけなかったんだろうって。


でもさ、こうして海の中に潜ってみて思うんだよ。


海の中は怖い位に静かで、怖い。でも、それでいて何だか優しい。

自分でも、訳わかんねぇけどさ。

何だか、お前が直ぐそばで笑ってくれてる気がして来て、そしたら余計に胸の中が温かくて心地よくて。



ぼこ…ぼこぼこ……



…なぁ、今何て言ったか、お前には伝わったか?




「わぁーすごいっ!!すごいよっ!すっごく綺麗」



目を輝かせながら暗闇に光るその蛍光色の光を追う無邪気なわが子。そんな姿を見ると、わざわざ車を走らせて此処まで来て良かったと改めて思った。

俺がこいつと同じくらいの歳の時は、そこいらでこんな光景は当たり前のように見ることができた。

当たり前だと思っていたこの夏の風物詩も、現代(今)ではとても貴重で珍しいものとなってしまった。そう思うと、何だか心の中にすっぽりと空間が出来てしまったような、変な錯覚に陥る。



「足元ちゃんと見ろよ。川に落ちても知らないからな」

「分かってるよぉー。子供扱いしないでっ」



ムッとした声が返ってくるも、またすぐに「すごい」とか「綺麗」を連発する。楽しそうに、嬉しそうにふわふわと暗闇を漂う光を追いかけていた。


空を見れば、その蛍光色に負けないくらいの、都会ではもう見ることができないような自然のプラネタリウムが広がっていた。俺はのんびりと空を眺めるも、まだまだ幼いわが子には空を見上げる余裕もなさそうだ。



「ねぇっ、写真撮ってよ!」



俺の鞄からデジタルカメラを取り出し、細く小さな指先にとまった光を俺に見せた。



「友達に見せるんだ、良いでしょ?」

「……良いけど、多分綺麗に映らないよ」



何度言い聞かせても撮ってほしいとせがむので、指先の光が逃げない内に俺は暗闇に向かってシャッターを切った。



「ほら、言った通りだろう?」



不貞腐れた顔をして、納得いかなそうに俯くわが子。



「どうして?こんなに綺麗なのに……思い出に撮っておきたいのに……」

「写真に残らないから良いんだよ。そうすれば、今日の事はおまえの心にずっと残るだろう?映像なんかで残すよりも、ずっと価値がある。ずっと強く心に残る筈さ」



今日の事を、ただの思い出の一部分として残してほしくは無かった。

記憶の片隅に埃被って欲しくなかった。


これから先、お前が大人になって、子供が出来たその日まで、この穏やかな風景が見れるなんて、約束はされていないから。


母さんが好きだった、この風景を、いつまでもお前の心の中で生かしておいてやりたいよ。本当は三人で見る筈だった、この光景を……それが、母さんの願いだって俺は思ってるから。



『なぁ萌花、蛍を見に行かないか?』

『蛍!?私、見た事無いよっ!見たい見たいっ!!いつ行くの?』

『明日だ、明日……行こう』

『明日?だって明日は、お母さんの……』



何で今日、こんな日に、こんな辺鄙な所に来てまで蛍を見に来たのか……

いつかお前に、分かる時が来るのかな。


俺は、川辺のせせらぎに耳を澄ませ、不安定に漂う蛍火に想いを託した。