よく、日本の英語教育に関しては「文法論争」みたいなのが勃発しますよね。「日本の英語教育は文法やってばっかりだ。文法なんかはいらないから、もっと会話をやらなきゃダメなんだ。」と、生徒やその親御さん、英会話スクール等がそのような主張をしているかと思います。その一方で、学校英語を教えている英語の先生たちはこう言う人が多いです。「文法をおろそかにしてはいけない。文法をしっかり身につけなければ土台がしっかりできず、その後の勉強のためにならない。文法なくして、きちんとした英語学習はありえない。だから今のやり方でいいのだ」と。

 

あくまで僕の私的な見解ですが、結論から言うと、どちらの主張も半分正しくて半分間違いです。具体的にそれぞれどの部分が間違っているかというと、前者は「文法なんかいらない」の部分、後者は「今のやり方を変える必要はない」の部分です。1つずつもう少し詳しく書いていきます。

 

まず文法の勉強の重要性についてですが、重要です。かなり重要です。特にある程度の年齢に既に達した日本人の英語の勉強の場合、日本語と全然似ても似つかない言語を勉強するわけですから、文法が理解できていなければ致命的です。よく「ヨーロッパの英語教育は文法の勉強なんかそんなに重視しない。とにかく喋らせる。そうやってガンガン喋らせていれば、自然に英語が喋れるようになるんだ」という主張を耳にしたりしますが、日本とヨーロッパでは全然事情が違いますヨーロッパ系の人たち、特にその中でもドイツ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、オランダなどのゲルマン系の言語を話す国の人たちは、元々自分たちのネイティブ言語の文法(あと語彙も)が英語と非常によく似ているので、勉強しなくても既にほぼ理解できています。だから彼らは英語を勉強する時に英文法はそんなに必死こいてやらなくてもいいわけです。

 

英語を勉強する前の時点で自分たちが既に持っているネイティブ言語の知識が非常に役に立つ。これはちょっと立場を置き換えてみたら想像しやすいと思います。例えば西洋人にとって中国語は意味不明な言語に見えてメチャクチャ難しいでしょうけど、僕たち日本人からしてみれば、特に読む事に関しては、僕たちが既に持っている日本語の知識のおかげで意外と簡単だったりします。例えば、「四川省、大地震発生。不眠之夜」とか、中国の空港のトイレのジェットタオルとかの注意書きで見かけた「警告:禁止乾燥手指其之他物品。可能引起不明原因的故障(手を乾かす事以外に使わないでください。原因不明の故障を引き起こす可能性があります)」とか、今まで中国語を全然勉強してなかった僕でも、日本語で覚えた漢字の知識だけで読めちゃいました。西洋人はこれらの文を理解できるようになるまでにけっこうな勉強時間を費やさなければならないでしょうけど、日本人の僕はパッと見ただけでわかっちゃったわけです。この日本人が中国語を読む事の例は、文法というテーマからはちょっと逸れちゃいましたが、要は自分の既に知っている言語が何語であるかによって、言語の学習効率に大きな影響があるという事です。

 

文法を理解している事の重要性について、日本語のネイティブスピーカーという立場からもう少し考えてみましょう。日本にいる外国人では、中国人や韓国人よりも欧米から来たヨーロッパ系の言語を喋る人たちの方が、日本語の学習に関しては圧倒的に苦労する傾向にあります。3年以上日本に住んでいても単語の羅列ぐらいしかできない人とか、ざらにいます。カタコトで「コンニチハ」「コレクダサイ」「アリガトウ」とか言ったりする分には、別に文法を理解している必要はないです。フレーズを丸暗記しているだけです。

 

じゃあどうしたら、僕ら日本語のネイティブスピーカーが話している日本語のレベルに近づけるのかというと、基本的なのでもいいからその言語の文法に沿って文を組み立てる事です。「~する」を「~した」にして現在形を過去形に変えるとか、「~する」を「~したい」にして希望・願望を表現するとか、文脈に応じて「~したら」(条件)、「~したけど」(逆説)、「~したから」(因果関係)などと形を適切に変え、意味の通る1つの文になるように前後をつなぎ合わせる。これができていない外国人の日本語を聞いたら、「ああ、この人、日本語の文法を理解してないな」って思うでしょう。で、いつまで経ってもこのままの状態の外国人を見たら、「ああ、この人このままだと日本語上達しないだろうな」と思うでしょう。文法がわかっていなければ言葉が上達しないというのはそういう事です。

 

さて、文法を理解していなければその言語を高いレベルで使いこなす事はできないという事はわかりましたが、だからといってそれが昔ながらの英語の勉強法である文法訳読方式が正当化される理由になるのかというと、答えは否です。語学教授法の歴史を見てみると、文法訳読方式の他にも、ディレクトメソッド、ナチュラルアプローチ、タスクベースドラーニング等、様々な教授法が考案されてきましたが、「原文を○○語に訳して~」という文法訳読方式は、その中でも最も古い教授法です。良く言えば「歴史と伝統のある」教授法ですが、悪く言えば「時代遅れ」でもあります。

 

昔はどこの国の外国語学習でも文法訳読方式が用いられてきましたが、現在英語圏の英語語学学校では、タスクベースドラーニング、つまり勉強しているその言語(英語)で課題に取り組み(英語で指示を受け、英語を使って行動する)、その課題が達成できたら英語も理解できているとみなすという方式を用いるのが一般的となっています。課題は個人でではなく何人かで協力しなければこなせないものが多く、課題を達成するためには必然的にペアやグループのメンバーと英語で意思疎通をする必要が出てきますから、嫌でも英語を使ってコミュニケーションを取らなければならなくなる、というわけですね。

 

英語圏の語学学校に限らず、ある程度語学教育の発達している国や地域、あるいは教育機関では、既に英語以外の言語でもタスクベースド方式で学習するのが普通になっています。逆に、アメリカの学校のスペイン語の授業とかでも、「何も得るものがなかった」等と生徒から不評だった授業の内容を聞いてみると、スペイン語の授業のはずなのに先生はほとんどスペイン語を喋らず、生徒にもスペイン語で喋ったり書いたりする機会はなく、ひたすら先生が英語で延々と文法の話をしてばかりという、日本の英語教育のトホホな状態と瓜二つだったりします。

 

日本の英語教育における「文法」に関する問題は他にもあります。それはあらゆる文法ミスを全て一律に「犯してはならないミス」として目くじら立てて過剰なまでに徹底的に矯正しようとする事です。「文法ミス」と一口に言っても、実は大きく分けて2種類あります。

 

1つはグローバルエラーと呼ばれる文法ミスで、これはどういうものかというと、文章全体の意味を著しく壊してしまうもので、これによって聞き手や読み手が文の意味を誤解したり、そもそも何を言いたいのか読み取ってもらえなかったりします。例えば英語では語順が大事です。日本語でなら「サメが彼を食べた」と言っても「彼をサメが食べた」と言っても意味は同じですが、英語ではA shark ate himとHe ate a sharkは同じ意味ではありません。後者は「彼がサメを食べた」になり、食べる側と食べられる側の立場関係が逆転してしまっており、文の意味が完全に違ったものになってしまいます。

 

He is not interestingだと「彼はつまらない奴だ」という意味になりますが、He is not interestedだと、「彼は興味を示していない」という意味になるので、この使い分けができてないと誤解を招くことになります。他にも日本語の語順や文法で英語を喋ろうとしたり、あるいは英語の文法で日本語を喋ろうとしてしまったがために、その言語のネイティブからしたら意味不明な文になってしまう事もあるでしょう。

 

グローバルエラーに関して言うと、文法以外でも、例えばフランス人はHの発音ができない人が多いですから、アイムハングリー(I’m hungry)(お腹すいた)と言うつもりが、アイムアングリー(I’m angry)(私は怒っている)になってしまい、誤解の元になってしまう事もあるでしょう。このようなミスは放置しておいて良いものではなく、すぐに正しい表現を覚え直す必要があります。

 

その一方で、ローカルエラーと呼ばれる文法ミスもあります。これは文法ミスは文法ミスだけども、文章全体の意味を書き換えてしまうほどの影響力はないというものです。例えば、3単現のSをつけ忘れたとか、She doesn’t know about itをShe don’t know about itと書いてしまったとか、Did you go to the bookstore yesterday?をDid you went to the bookstore yesterday?と言ってしまったとか、単数と複数を間違えてPeople in Australia is kindと言ってしまったとか、そんなもんです。

 

これらは確かに文法ミスですが、だからといって相手に言いたい事が伝わらないかというと、そんな事はありません。ちゃんと伝わります。ただ、「ああ、細かいトコちょっと間違えてるな」と思われるぐらいです。実際、僕のスウェーデン人の友達の英語はネイティブスピーカー相手に対等にやりとりできるレベルですが、喋っていると所々細かい文法ミスがあったりします。特に単数と複数の使い分け。They don’t do such a thingをThey doesn’t do such a thingとか言ったりしちゃいます。

 

スウェーデン語は主語が単数でも複数でも動詞の現在形は同じ形のままなので、ついつい英語を喋る時もその感覚が抜けないんだと思いますが、別にこんなミス、聞き手がいちいち「あ、今、動詞が複数形になってなかったよ」と口を挟まなければ、コミュニケーションの妨げになりません。

 

僕が日本の英語教育で問題だなと思う事の1つは、教える側の人間がこのローカルエラーの文法ミスばかりをやたら目くじら立てて直している事です。もうヒステリックなぐらい徹底的にダメ出しします。「こんなんじゃきちんとした英語は覚えられない!」ってな感じで。その割に、より深刻な問題であり、むしろこっちを先に直すべきでしょというグローバルエラーの方はどうなのかというと、あんまり力を入れて直していないような感じがします。力の入れ所がおかしいんじゃないですかね。

 

だったらグローバルエラーもローカルエラーもとにかく全部ひっくるめてとことん直せばいいじゃないかと思うかもしれませんが、話はそんなに単純じゃないです。ちゃんとした語学教育をしている所では、多種多様なアクティビティが行われており、それぞれ何を焦点としているかが違います。それは大きく2つに分けられるもので、それぞれAccuracy focus(アキュレシーフォーカス)とFluency focus(フルーエンシーフォーカス)と呼ばれます。Accuracy focusは言語を正しく使えるようにするのが目的なので、文法ミスはグローバルエラーでもローカルエラーでも直されます。例えばエッセイの添削とかです。

 

一方で、例えば会話の練習はFluency focus、つまり会話の流れを途切れさせずに続けられる事が焦点なので、せっかく喋っている所でいちいち細かい文法ミスを目くじら立てて訂正させていたら、かえって喋る練習を阻害してしまいます。致命的な意味の間違いがなければ、直さずにそのまま流してあげた方が、スピーキングを促進できるというものです。文法の訂正は、それがよほど致命的なグローバルエラーでなければ、Fluency focusのアクティビティの時にはやるべきではなく、Accuracy focusのアクティビティをやっている時に取り組めばいい事です。

 

大体、こういう文法ミス(ローカルエラー)を鬼の首でも取ったかのように責め立てるのは、「文法ミスが完璧に取り除かれてからでなければ、喋ったり書いたりし始めてはいけない」という固定観念の表れだと思いますが、そもそも文法ってのは、その言語のネイティブスピーカーでも最初から完璧にできるものではありません。

 

むしろ、間違えたままでもいいからとりあえず喋ったり書いたりしちゃって、それが少しずつ正しい形に直っていくというプロセスが自然です。例えば、Goの過去形はWent、過去分詞形はGoneですが、この動詞の不規則変化は英語のネイティブスピーカーの子供でも最初のうちはできません。-edをつければ過去形になると思ってgoedと言ったり、wentに余計にedをつけてwentedとか言っちゃったりします。しばらくはそういった間違った過去形をそのまま使い続けるのですが、そのうち間違いに気づいて正しい動詞の変化をさせるようになります。

 

さて、いろいろ説明した所で要点をまとめますが(まとまってんのかわかりませんが)、最初に出てきた「文法論争」の双方の言い分の食い違いを整理し、それぞれの主張の正しい部分のみを抽出すると、「文法の学習を軽視していいわけではないが、文法訳読方式中心の勉強方法は見直す必要がある」という事になります。となると、実際のコミュニケーションに役立つ形で文法を身につける必要があるという事になりますが、今回は長くなったのでこの辺にしておいて、次回「本当に意義のある文法学習」について触れたいと思います。

 

《ポイントまとめ》

・語学の勉強において文法はおろそかにしてはいけないが、文法訳読方式では文法も会話力も身につかないケースがほとんどである

・文法をそれほどマジメに勉強しなくてもいいのは、自分の既に知っている言語と勉強中の言語の文法が似ている場合に限る。言語の性質が大きく異なる場合は、その言語の文法を理解する事が重要。

・文法訳読方式の語学学習は、語学教授法の歴史の中で最も古い方法であり、欠点も多く指摘されている。従って語学学習の発達した所ではもう使われていない。代わりにタスクベースド方式が主流となっている。

・文法ミスにはグローバルエラーとローカルエラーの2種類がある。グローバルエラーは誤解の元となるのですぐに直す必要があるが、ローカルエラーは特に上級レベルに達する前の段階でのスピーキングにおいてはそれほど気にする必要はない

・文法が完璧になってからしか喋り始めてはいけないわけではない。むしろ間違ったままでもいいから使って、使いながら気づいた間違いを直していけばよい。