4月21日の火曜日。この週に入ってファームのボスであるマイケルから雇用打ち切りの可能性が僕らバックパッカーたちに知らされた。ワーキングホリデーの者に任せられるような仕事がだんだんなくなってきており、あとは重機を使った作業など、経験がなければできないような仕事ばかりが残ってきているようだ。ファームの仕事をやるバックパッカーたちにはセカンドビザが欲しくて88日の労働をするという条件を満たしておきたい人が多く、僕と一緒にいたヨーロッパ勢も例外ではなかった。その事情にも配慮して、マイケルはこの週には何とか時間稼ぎのためになりそうな仕事を与えてくれて、「この間に他に君たちに何か新たに与えられそうな仕事がないか探しておくよ」と言ってくれた。なんと良心的なファームなのか。ただ、ここで与えられていたのは丸一日費やすような内容の仕事ではなかったため、昼過ぎには仕事が終わってホステルに戻れるようになっていた。
マットもさすがにこのファームでの仕事がもうじき終わりそうなのではないかという事を把握していたので、僕のこのファームでの雇用が終わってしまった時に次の仕事になるべくスムーズに移れるように、この日仕事から戻ってきたらオレンジピッキングのインダクションに参加したらどうかと勧めてくれた。僕が初めてオレンジピッキングをしたファームではインダクションはなかったのだが、規模の大きい会社が経営しているファームになると、1時間ほどのインダクション(事前研修)への参加が必要になるのだ。
実はこの事前研修、まだこの時点で雇用が続いている天国ファームで働き始める前にも参加した事があった。今度新たにやる事になるかもしれないオレンジピッキングの仕事も、今まだ働いている天国ファームも、同じ系列の会社の傘下にあるからだ。そのため、僕はこの事前研修の内容がどんなものか既に知っていたのだが、制度上研修は受けなければいけない事になっていたので、また同じ研修を受けにそのファームを経営している会社のオフィスへ向かった。
この日僕と一緒にインダクションを受けることになっていたのは、香港のレイとそのガールフレンド、台湾や香港の友達数人と、最近レンマークにやってきたばかりのデヴィーナだ。デヴィーナはインドネシア出身の女の子で、数年ほどシンガポールでグラフィックデザイナーとして働いていたが、少し新しい体験がしたくてオーストラリアに来たのだそうだ。ファームもどちらかというと興味本位で、セカンドビザがどうしても欲しいというわけではないらしい。
オフィスに着くと、早速インダクションが始まった。インダクションはプロジェクターに映し出される「この会社経営のファームで気を付ける事、守るべきルール」というテーマに沿ったビデオが途中クイズを10問ほど挟んで流される。音声の言語は当然英語なのだが、ファームで働く人には海外からやってきたバックパッカーが多いため、英語以外の言語の字幕も用意されているのだが、用意されているのは中国語と韓国語とフランス語だけだった。その他はこの3つと比べると人口が少ないからなのか、字幕が用意されておらず、英語のみでインダクションについていかなければならない。
とはいっても、このインダクションのクイズは、まず間違いなく10問中10問正解できるといってもいいだろう。問題は3択か4択の選択形式だし、「さぁここで問題です。次のA~Dのうち正しいのはどれでしょう?」と問題が出たと思ったら、その数秒後には即「この問題の答えはBです」などと答えを教えてくれて、丁寧に関連動画や写真付きの解説までいちいちつけてくれるのだ。これを第1問から第10問まで一問ずつやってくれるので、間違えるわけがない。
インダクションのビデオが終わり、少し時間があったので、レイがファーム未経験のデヴィーナにこっそりと秘密を教えてあげていた。
レイ:「今のインダクションのビデオでさ、ハシゴの一番上の段は危ないから登っちゃいけないとか、あんまりハシゴからはみ出して遠くまで手を伸ばしちゃいけないとかいろいろ注意事項があったでしょ。ああいうルールって実はね、実際の現場ではみんなほとんど破ってるんだよ」
デヴィーナ:「ええ?そうなの?」
ここで僕も会話に参加する。
僕:「そうそう、実際禁止されてるハシゴの使い方しないと取れないオレンジってたくさんあるんだよね。でもファームのボスからはオレンジの取り残しがあってはいけないって言われるから、ボスの「オレンジの取り残しはないように」という言いつけを守ると嫌でもこのビデオのルールを無視した体勢にしないといけなくなるんだよねぇ」
デヴィーナ:「それって危なくないの?」
僕:「危ないね(笑)特に慣れないうちはね。ハシゴを支えている枝がバキバキ折れてハシゴごと前に倒れる事とかもあるし、ハシゴごと後ろに倒れる事だってあるし、体勢崩してハシゴから落ちる事だってあるし。」
レイ:「初日はたぶん誰でも縮こまってハシゴに必死でしがみつくようになりながらピッキングする事になると思う。でも、時間が経てば体のバランスのとり方とかも覚えてくるようになるし、オレンジをもぎ取るペースもあがるよ」
僕:「そうそう。俺も初日は怖くて手を伸ばせなかったし、『あ、これ無理無理!』って思った(笑)だけどやっぱ慣れだよ」
ある程度会社の規模が大きくなってくると、「うちは安全のための規定を守ってますよ」という建前を保つためなのかこういった「研修」が行われるのだが、知識としては頭に入っていても現場で研修で教えられた通りにやっていないという事はけっこうよくある話だ。いくらルールを教えた所で、それが現場で守られていなければ大した意味はない。ルールと現場の実情が食い違っているのは別段珍しい事でもないけど、やはりファームも例外ではなかったのね~。