10月26日の日曜日。いつもは土日は特に予定を入れず、食材の買い物に行く以外は特に外出もしない僕にしては珍しく、この日は2件の約束が入っていた。

 

1件目はマットというメルボルン在住のオーストラリア人との午前中に会う約束。マットとはLanguage Exchangeで知り合ったのだが、直接会うのはこの日が初めてだった。Language Exchangeとは、文字通りお互いの言語を交換するという事。もっと詳しく言うと、お互いのネイティブ言語を教えあうというものだ。例えば、自分が日本人で英語を学びたいのであれば、日本語を勉強している英語圏の人をパートナーとして見つければ、自分は相手から英語を学べるし、相手には日本語を教えてあげられる。自分と相手の言語さえマッチすれば、もちろん日本語・英語だけでなく、他のどんな言語の組み合わせもありうる。オーストラリアやアメリカ等の英語圏では、大学の掲示板等にExchangeパートナーの募集の紙を貼り出したりするのは普通だし、今回の僕のケースのようにネット上で登録してパートナーを探すというのもありだ。(中には一部怪しいやつもあるが)

 

実は当初、僕はこのサイトを日本語に興味のあるスウェーデン人を見つけるために使うつもりだったのだが、誰かからメッセージが来たと思って読んでみたらその送り主は日本語を勉強しているオーストラリア人だった、というわけだ。最初に僕が狙っていたのはスウェーデン人であったものの、何人(なにじん)でも日本語に興味を持ってもらえるのは嬉しいし、地元のオーストラリア人の友達も作って話をしたいという気持ちもあったため、マットから送られてきたメッセージには快く返事をし、メルボルンセントラル駅で会う約束をしたのだった。

 

マットは地元の公立高校で日本語の先生をしているらしく、僕と会った時点でまだ教員1年目だった。オーストラリアの高校の教員生活はどんなものなのかと興味があったので色々聞かせてもらったが、やはりある程度予想していた通り日本の教員と比べて相当待遇のよいものだった。給料は僕が日本でフルタイムで働いていた時の倍ぐらいあったし、オーストラリアの教員は部活動指導がないため、大抵授業が終わったらすぐに帰れる。遅くても午後4時半ぐらいにはあがれる。担当しているクラスの人数は50人ぐらいだ。これだけ聞くと1クラス35~40人ぐらいの日本より大変じゃないかと思うかもしれないが、50人の1クラスを3人の教員でチームティーチングしているため、実質1人あたりの負担は20人にも満たない。さらに、1年目の新入りだろうが何十年も勤務しているベテランだろうが、そういったものに関係なく、みんな平等に昼寝の権利というものが認められているらしい。マットが勤めているのは移民の多い地域なので、オーストラリアの学校生活にうまく馴染んでついてこられない生徒の対応が大変らしいが、それを考慮に入れてもやはりうらやましぃ~。勤務1年目でこんな労働条件、日本では公立の学校どころか民間の大企業でも聞いたことないぞ。しかもマットの勤務している高校だけが特別というわけではなく、オーストラリアで教員をやるといったらこれぐらいは普通なのだそうな。

 

マットは日本語の他にフランス語も話す事ができ、勤め先の学校では日本語の他にフランス語、そして国語としての英語の授業も担当しているらしい。で、生徒たちの日本語のレベルはどのぐらいなのかというと、出席を取る時に「○○さんいますか」と日本語で聞くと「います」「いません」と日本語で答えるぐらいのことはできるが、とても日本語のみで会話を続けられるようなレベルには及ばないのだそうだ。その高校は特別学力の優れた生徒たちばかりが集まっている学校ではないとはいえ、なんか日本の高校の英語事情とあんまり変わらないような気もしますな。

 

そういえば、以前あるアメリカ人の友達に聞いた話では、彼も高校時代に外国語の授業で日本語を勉強していたが、高校の日本語の授業のカリキュラムを一通り終えた後で覚えていた日本語の文は「これは私のペンです」ぐらいだったそうだ。日本語と英語は文法的な構造が似ても似つかないものだし、語彙も全く違うし、もちろん文化的背景も異なる全く別の種類の言語だから、学校の授業だけで全員一律に高いレベルで使いこなせるようになるという目標設定にはもしかしたら少し無理があるのかもしれないな。英語と似通った言語であるドイツ語をネイティブ言語とするドイツ人の多くが学校教育だけで英語を上級レベルで使いこなせるようになるのとは事情が違う。僕自身、英語で大学の授業を理解したり、アメリカのドラマや映画を英語音声の字幕なしでも話についていけるレベルになるまでに10年ぐらいの勉強時間を費やしたし、マットも日本語の上級レベルに達するのに8年ぐらいかかったらしい(フランス語は2~3年も勉強すれば喋れるようになったらしいが)。

 

マットとのお喋りを終えた僕は、次の約束の待ち合わせ場所に向かう。といってもまたメルボルンセントラルなのだが。本日の2件目の相手は中国人のレオ。ランチに誘ったのは僕の方だが、中国人も納得する本格的な中華レストランがあるから、レオは僕をそこに連れて行ってくれるのだという。連れて行ってもらったレストランでは、中華そばを注文した。味は美味しかったのだが、辛さは韓国料理にも負けない程で、味の質も日本や英語圏で一般的に親しまれている「中華の味」とはだいぶ違うものだった。ふむ。なかなかいいものを味わわせてもらった。

 

しばらくレオと話していて会話が少し途切れると、他の客たち(僕以外たぶん全員中国人)を見回して彼はこう言った。

 

レオ:「今ここにいる人たちをふと見て思ったんだけど、これってある意味けっこう怖い事じゃないかな?この国はオーストラリアで英語圏なのに、ここにいるのは中国人ばっかりだ。店内を流れる音楽も中国語の音楽ばっかり。ここにいる人間は中国語しか喋らない。この中華料理の店内だけならまだしも、英語圏である店の外でも中国語しか喋ろうとしない中国人の集団がウロウロしているんだ。こういう光景を自分の国の地元でも見かけたらどんな風に思う?」

 

そう言われるとたしかに。自分の地元で日本語を全く喋ろうとも勉強しようともしない人が毎日のように大勢たむろしていたら何だか違和感があるような気がする。それが1年やそこらで自分の国へ帰ってしまう事がわかっているのなら、そんなに必死に現地の言語を覚えなくてもいいかもしれないが、ずっとそこに滞在するのならやはり現地の言葉も覚える方がいいと思う。大人になってから外国語を新たに勉強するのは子供が自然に言葉を覚えるのよりかなり大変でキツイ事だけど、外国にずっと住むのならやはりそれは避けて通れないものなのではないだろうか。全員が全員その現地語の上級レベルまでは達せずとも、少なくとも現地の言葉や文化を学ぼうとする姿勢ぐらいは見せた方がよいのでは?

 

よく「なぜ日本人は海外でも日本人同士で群れてばかりなのか」等と言われたりするが、やっぱり結局の所はどこの国の人間でも同じなんだよな~。シドニーには日本人以外とあまり関わろうとしない日本人ばかりが埋没する日本人村、ロサンゼルスにはリトルトーキョーがあるというが、チャイナタウンなんかは世界中のどこにでもあるし、コリアンコミュニティだって強力だ。ブラジル人はブラジル人同士で固まってポルトガル語ばかり喋るし、コロンビア人はコロンビア人同士でスペイン語ばっかり。結局どこにいっても似たようなモンなのだ。

 

異国の地にやってきて、自分と同じ言葉を喋る人たちとばかり一緒にいて、そのメンバーだけで固まるのは気持ちのいい事だというのはわかる。日本人に限らず、自分と似たような人に近づき、その人と一緒にいる方が落ち着くというのは人間の本能的なものなのだろうと思う。だが、もしそれが結果的に自分が海外に来た意味を薄れさせてしまうものなのだとしたら、そもそも何のためにはるばるオーストラリアまでやってきたというのだろう?自分の意思で異国の地へ乗り込み、そこへ住むのなら、そもそも自分がどんな目的を持ってこの地へ降り立ったのかを忘れないようにすべきだと思う。その目的が、同胞とばかり一緒にいても悪影響を受けるものでないのであれば、それはそれで問題ないのかもしれないが。

 

普段は仕事と自宅での勉強ばかりの毎日だったが、たまにはこうして友達と会うのもいいな。何かについて考えるきっかけになるし、そしてリフレッシュにもなる。