8月24日の日曜日の午前。僕はメルボルンのトゥーラックロードにあるスウェーデン教会を訪れていた。僕自身別にキリスト教徒でもない(というかキリスト教に限らず宗教そのものを何も信じていない)のに何故わざわざ教会を訪れるのかというと、スウェーデン語が目当てだった。僕にはオーストラリアに来る前から1人仲の良いスウェーデン人の友人がいて、お互いに週末に特に用事がなければほぼ毎週スカイプをしていて、日本での仕事を辞めてスウェーデン語の勉強に充てる時間が増えてからはスウェーデン語でも会話をしていたのだが、できれば他にもスウェーデン語での話し相手が欲しいと思っていたのだ。彼女はもちろんスウェーデン語のネイティブだし、彼女とは良好な関係が続いているし、彼女相手にスウェーデン語でのやりとりができているという事自体には十分満足している。でも、いずれスウェーデンに行くつもりなのだから、できればスウェーデンに行く前に他のスウェーデン人とも話してみたいと思っていたし、一口にスウェーデン語のネイティブスピーカーといっても、一人一人それぞれの癖があり、実際にスウェーデンに行く前にいつも慣れ親しんでいる彼女のスウェーデン語だけでなく、いろんなスウェーデン人のいろんなスウェーデン語に触れておいたほうがいいかもとも思ったのだった。

 

そこでセイントキルダロード沿いにあるアパートに引っ越してきて一段落してからはというもの、ちょくちょくスウェーデン人コミュニティはメルボルンのどこかにないだろうかとネットで検索していたのだった。そこで出てきたのがスウェーデン教会。実はこの2週間ほど前に僕はこの教会に既に一回訪れており、その時に毎月最終週以外の日曜日は毎週午前に聖餐会がやっているから、そこでいろんな人に会えるだろうという事を知ったため、今日聖餐会の時間に合わせて来る事にしていたのだった。

 

ところが、聖餐会が始まるはずの時間になっても人が集まる気配がない。というか、聖餐会が行われるはずの建物が閉まっている。どういう事かと思って敷地内をグルグル回っていると、若い女の子がMay I help you?と話しかけてきた。聖餐会があると思って来たのだが、やってる気配がなくて状況がよくわからないのだと事情を説明すると、彼女は今日は第4日曜日だから聖餐会はやってないのだと説明してくれた。この月は第5日曜まであったので、僕はてっきりその日が休みなのかと思っていたのだが、「毎月最後の日曜日」というのはどうやら毎月第4日曜日の事だったらしいのだ。

 

そうとも知らずに聖餐会が休みの日に聖餐会に参加しようと教会にやってきてしまった僕。彼女も僕も特に忙しかったわけでもなかったし、流れで2人はそのまま喋り始めた。すると彼女はスウェーデン人である事が判明。まあスウェーデン教会なのだから別に驚くような事ではないが。どうやらこの教会の牧師の娘さんらしい。

 

パッと見て思った事だが、この娘さん、めっちゃかわいい。思い起こせば、この教会の中にある小さな売店のお姉さんも必要以上に美人だったな。これでは、スウェーデン語とはまた別の理由でもこの教会に来るモチベーションが湧いてこなくもない(←既に初期の目的を忘れている)。

 

そういえば以前スウェーデンに旅行に行った時にまずはフィンランドで入国審査があったのだが、そこで見かけた空港スタッフも見渡す限り美男美女だった。スウェーデンに入ってもやっぱりそこら中に美形の人が歩き回っていたし、日本のバラエティ番組のロケで芸人がスウェーデンに行ったのを見た時も、例えば画面の奥の方を見てみると、別に俳優とかでもなんでもないその辺の道路工事の兄ちゃんがやたらとイケメンだったりするのだ。

 

なぜだ?僕も彼らも同じ人類のはずなのに、なぜこんなにも違うのか??アメリカ等の英語圏にも白人はたくさんいるが、そこまで美男美女率が飛び抜けて高いとは思えない。白人だからそれだけでルックスがいいという事にはならないのだ。それに対し、北欧は美形がやたらと多いような気がするのだが、僕の単なる気のせいだとは到底思えない。なぜこんなにも一部の地域に美形が偏るのだろうか。「神は全知全能であり、全ての人間を平等に愛している。そして私たち人間は全て、神の姿かたちに似せて平等に創られた」などと言われたりするが、絶対に嘘だな。

 

おお、美形トークでだいぶ脱線してしまった。話を元に戻そう。このスウェーデン教会で出会った若い女の子がスウェーデン人である事が発覚したので、早速僕がスウェーデン語で「Jag är intresserad av Sverige och har letat efter en plats där man kan träffa svenskar, då råkade jag hitta den här kyrkan (スウェーデンに興味があるからスウェーデン人に会える場所を探していたら、この教会が見つかったんだ)」と話し始めると、彼女はビックリした。「何で何で?何でスウェーデン語喋れるの?何でスウェーデンに興味があるの??」と彼女は目を丸くしていろいろと聞いてくる。

 

マイナー言語ってここが面白いんだな。英語はいくら上手に喋っても英語圏の人間はほとんどそれに対してあまり驚いたりしなかったりする。むしろ「世界中の人間が英語喋って当然なんだ、英語もロクに喋れない奴はバカだ」みたいな意識を持っている英語圏の人間は少なからずいるのではないか(というか実際に何人も見てきた)。だがよくよく考えてみれば、世界中の非英語圏の人間たちが、英語しか喋らない英語圏の人に合わせて英語を喋ろうとしてあげているのにそれがあたかも当然の事であるかのように振る舞うのは、感謝の気持ちや非英語圏の人に対する敬意が足りないというか、ちょっと横柄なのではなかろうか。

 

ところが、スウェーデンのような明らかに世界のメジャー言語のステータスからは程遠い言語の国の人たちの場合、ちょっとローカル言語で話しただけでなかなかの反応が得られる。いくつかのフレーズを知っているだけでも感心させられるだろうが、きちんとスウェーデン語の文法を理解し、それに則って自分で文章を組み立てて喋ると、相手の「おぉー!」という感心度は格段に上がる。

 

「何故スウェーデンにそこまで興味を持つようになったのか」という彼女の質問に対してはスウェーデン語だけで説明するのは難しかったのでそこだけは英語に切り替えて説明したが、その部分を話し終えると即スウェーデン語に戻した。彼女との会話が始まってしばらくすると、この教会の牧師である彼女のお父さんもやってきた。彼もオーストラリアに住んでいる日本人がスウェーデン語を喋るという事を喜んでいた様子だった。スウェーデンに住んでたの?とまで聞かれてしまった。いやいや、旅行で1週間弱滞在した事があるだけです(^^;)でも、スウェーデンに住んでいる外国人でもスウェーデン語をほとんどまともに喋れない人は結構いるらしいため、ある程度のレベルでスウェーデン語が喋れれば、スウェーデン人にそのように思われるのは無理もないのかもしれない。まぁ、日本に5年も10年も住んでいるのに日本語をほとんど喋れないアメリカ人とかもたくさんいるしね。

 

今回このスウェーデン人親子と喋ってみて、改めて思った事が2つある。1つは、自分のスウェーデン語に関してだ。やはりスウェーデン語の勉強量がしっかりと確保できるようになってからは確実に上達してきたし、普段喋り慣れているスウェーデンの友人以外と話しても、僕のスウェーデン語は向こうに通じるし、向こうのスウェーデン語も僕はわかるのだという事が確認できた。これは大きな収穫だ。

 

もう一つは、異国に入り込んでいく際の現地語の重要性だ。どの国にも現地語があり、やはりどこの国でもその現地語こそが、現地の人には最も慣れ親しまれている言語である事は言うまでもない。だから、その国に入ったらその国の言葉で話そうと努力すると、英語だけで何とかしようとするよりも、それが現地の人に受け入れられる近道になるのだ。でもこれってちょっと考えてみたら当たり前の事だと思う。例えば日本に住んでいるアメリカ人で、こちらとコミュニケーションを取る時に頑張って日本語で話そうと努力するアメリカ人と、最初から英語しか話そうとせず、「俺は日本語なんか喋らんぞ。お前らが英語喋って当然なんだ。英語は地球語なんだからな」という態度のアメリカ人がいたら、どちらと仲良くしたいか?という事だ。

 

英語はたしかに便利な言語だ。お互いの言葉が通じない場合は、とりあえずはお互いに英語を喋りましょうという暗黙の了解みたいなものもある(特に空港とか)。英語がある程度できれば世界中のかなりのエリアで意思疎通は何とかなるだろう。だが、それは英語が言語として優れているからではない。今勤めている電力系のセールス会社のオーストラリア人のメンバーにも、一人English is the best language in the world(英語こそが世界で最も優れた言語だ)などと得意げに言っている奴がいたが、勘違いも甚だしい。英語が何故ここまで世界中で広く喋られているのかというと、元はといえばまずイギリスが世界中の国々を侵略しまくってそこを植民地化して英語圏が広がり、その後その植民地の一つだったアメリカが独立して、世界中に大きな影響を及ぼす超大国になったから、その影響でさらに英語が広く使われるようになったというだけの話だ。決して英語という言語そのものが他の言語よりも性質的に優れているというわけではないし、当然ある言語が他の言語よりも劣っているという事もないのだ。英語は確かにコミュニケーションのツールとしては便利だが、なんでもかんでも英語を基準に考えるのもどうなのかと思うのであった。