理事長室は、夕刻の光に満たされていた

書棚の影が長く伸び、室内の時間だけが、わずかに遅れて流れているようだった


 日本医学会の伊藤部会長と三枝理事長は、書類を前にしながらも、話題は自然に歴史へと向かっていた


「高松凌雲は、戊辰の最中でも、患者に敵も味方はないと言ったそうですな」


 理事長は頷いた

「その一言が、薩長の幹部を揺り動かしたのでしょう」


  京香は、壁際に立ち、両手を前にして静かにその会話を聞いていた



「佐藤泰然先生が、木戸孝允を諭されたんだからな」

理事長は続けた

「賊軍と呼ばれる者の中にも、新しい日本建国に要り用な人材がいる、その者達を生かしてこそ、維新といえるのだ」


「榎本武揚もそうですな」

伊藤部会長が言った

「五稜郭で敗れる直前、薩長軍の傷病兵を湯川温泉に送り捕虜から解放したそうですな」


部屋の中に、短い沈黙が落ちた


 京香は、その沈黙の中で理解していた

彼らは歴史を語っているのではない

姿勢の話をしているのだと


 理事長が京香に視線を向けた

「覚えておくといい、真に力を持つ者ほど、それを誇示しない」


京香は、小さく一礼して、席を後にした



 数日後、あの映画館の男が退院した

多くを語らず、京香の前に立ち、深々と頭を下げた


「自分の生き方を考え直しました 有難う」


それだけだった


京香は、白衣の袖を整えいつも通りに応じた

特別な言葉は返さなかった




礼緒と別れる日も、静かだった


「困ったことがあれば、いつでも連絡してください」


それだけを残し、礼緒は去っていった

技の話も、覚悟の話も、もうしなかった


けれど京香は知っている

礼緒の武道は、見せるためのものではない

誤っているから、止めただけ

それ以上の理由は、必要なかった

礼緒は、京香の心のボディガード

京香は、思わず胸に手を当てた

鼓動が早くなるのを感じていた