今更ながら国立メディア芸術総合センターについて考えてみました。
みなさんどう思われますかね。
そもそも何がやりたいんですかね。
原画でもいっぱい集めるのかな。
でもそれじゃあ色々現役作家との問題が生まれるなぁ。
それとも文化と創造の拠点とか言うのかな。
「マンガばかり読んでると勉強出来なくなるぞ!」と怒られてた時代がウソの様ですね。
でも今もそうやって子供たちは怒られてますよね。
まぁマンガ・アニメといってものは日本が世界に誇る文化産業ですよね。
それは分かります。
実際今の日本のイメージはマンガやアニメに牽引されてる部分は大きいでしょう。
でもね、だからと言ってそんなに持ち上げる必要があるのでしょうか。
マンガとかアニメって文学や美術的なものへのコンプレックスって大きいと思うのですよ。
特に文学に対しては。
同じ創造物なのに片や学問として持ち上げられ、片や子供の物として蔑まれる。
そこに自らのクリエイターとしての能力をつぎ込んだ作家って多いと思うんです。
むしろ「受け入れられてるのに評価されない」ところに良さがある様に思います。
だからこそ民衆に近い存在で、いられたのではないのか。
大衆の中にありながら決してお高く留まらない良さと言いますか。
少し前から焼酎がブームだったりしてます。
一部の焼酎なんて考えられない高値になってたりします。
でもきっとそこには今までの焼酎の良さが無くなってる様に感じます。
むしろ工業用アルコールに近い焼酎こそ本流なのではないでしょうか。
決して日本酒には勝てないアウトロー的なものです。
活字作品をマンガに出来ても、活字作品に出来ないマンガって結構ありますよね。
当然です。
そこにマンガの優越性みたいなものを感じます。
同時に受動的になり読者の創造を奪う点で低く見られる原因にもなってます。
でも文人だって読者に創造性なんて求めてないと思うんですよ。
勝手に書きたいものを書いてるに過ぎないのですし。
それに特に純文学をせっせとやってる人に「分かるなぁ」なんて言ったら怒られますよ。
「お前なんかに簡単に分かられてたまるか!」って。
その点マンガは優しいですよね。
一目瞭然な訳ですから。
でも当然そこにだって作者の想いが底流には存在するんです。
それを読み取るのは同じでしょう。
絵があるからって浅く考えるのは間違ってます。
でも同時にそれがあるから逆に漫画家たちはより作品を自分の物として書けるのでしょう。
思いを込めやすいと言いますか。
ドラゴンボールのミスターサタンっていますよね。
あれが出てきた時に「なんでこんなのにページ割くんだろう」って思ったんですよ。
結構そう思った人多いんじゃないでしょうか。
でもあのキャラクターがいるから人間目線で悟空たちの異常さが分かるんですよね。
それと同時に多分余りに自分の構想から離れてしまった作品になった「ドラゴンボール」を見る鳥山明自身ではないかとも思われます。
とっくに誰かが言ってるかも知れませんが、すいません。
多分あの時期ってもう書くのが面倒になってたと思うんですよ。
当初の構想ではドクタースランプより短くなるつもりだったみたいですし。
つまらなかったんじゃないかなぁ。
戦ってばかりだし。
でもアニメやグッズなどであそこまで巨大に膨れ上がって、終われなかったんじゃないかと思うんです。
そんな中で登場したあの世界観を否定する人間界のチャンピオン「ミスターサタン」。
彼の目に映る非現実的な世界による恐怖、喪失される自信、逆に生まれる自己正当化。
きっとそれを描くことで自分が描いてるのに凡そそうは思えなくなってしまった作品との距離を保ってたのではないでしょうか。
さて話を戻します。
国立メディア芸術総合センターは民衆と漫画に距離を作るだけだから止めて下さい。
演劇が舞台芸術と言われ勘違いが多く生まれだしたのと同じ道を歩むと思います。
「表現」から外れ「やっつけ仕事」をやり出した演劇人が多いのは周知の事実です。
それと同じことになります。
つーかもうなってますね。
少年ジャンプが過度のマーケティング重視になったのが原因だと思います。
それに文学博物館だって大々的な物って無いじゃないですか。
漫画だったら国民も受け入れるだろうって感じでバカにしてるでしょ。
それは常に大衆に向け理解を求めた漫画家たちへの最大の侮辱です。
戦後の動乱期に「愉しみ」と「商業」を巧みに織り交ぜた漫画業界の苦労を否定してます。
漫画やアニメは芸術じゃないです。
メディア芸術って呼び方も好きじゃないです。
表現者から牙を抜かないでほしいです。
漫画はガラスケースの中よりも床に転がってる方がふさわしい。
漫画好きとしてはそう思うのです。