こんばんは。soraブログにお越しいただき、ありがとうございます。以前の記事でもちょと触れたことがあるのですが、今回はTAIJIさんの本の感想をUPしますね。
考えてみるとあたしはX時代をあまり知らなくて(XJAPANについてもまだまだ未知の部分は多いと思いますが)、皆様にとても愛されていたというTAIJIさんのことをもっと知りたいと思い、こちらの本を読ませていただきました。
子供の頃のTAIJIさん(やんちゃそうだけどめちゃ可愛い)、XJAPANと共演した日産スタジアムにて楽屋?から会場を見下ろすショットもありました。
また、愛しそうに猫を撫でる姿や、エプロンをかけ料理をしながらこちらに笑いかける様子などは赤塚さんが撮影されたものでしょうか。おだやかな日常がうかがえる微笑ましいひとコマです。
しかし一転、冒頭からの内容はとても重くシビアなものになります。異国で急逝なさったTAIJIさん。後から聞かされたその経緯は、ご遺族にとって到底納得のいくものではありませんでした。
第一章にはもう物言えぬ彼の無念を果たすべく、懸命に闘い続けた赤塚さんの日々の記録が綴られていました。
2011年7月。TAIJIさんは仕事でサイパンに向かう機上にて当時の担当マネージャーとトラブルになり、FBIに身柄拘束され拘置所内にて不慮の死を遂げられます。
ご親族、赤塚さんが疑念をもたれた理由としてTAIJIさんをめぐるあらゆる状況が不自然であること、また不信感を持たざるを得ない各関係機関の対応などがありました。
当時のメディアもこの件に関心を持ち、特に週刊文春は熱心に取材を重ね詳細な検証記事を掲載しています。また赤塚さんご自身も悲しみの癒えぬなか再び現地に赴いたり、聞き取り調査などされておられます。
そのような熱意が実ったのか、2016年にはとうとう外務省がTAIJIさんの死に問題があったことを認めます。真相解明には至っていないものの大きな進展だったといえるかもしれません(それでも5年かかったのですよね)。
日本と外国とでは法律も違いますし、情報開示もなかなか思うようには進まないようです。日本の当局も外国で起きたことにはなかなか手を出せない現状があるのでしょう。
しかし海外での邦人保護の観点から言っても改善すべき点は多々あるのだと、この本を読んで改めて強く感じました。
そして第二章にはTAIJIさんの闘病生活が書かれています。TAIJIさんが罹られていた病には厚労省から難病指定されているものや、辛い症状を伴うものが複数ありました。また深刻な心の病も彼を苦しめていました。
これらを抱えながらも、それでも弱音を吐くことなく病気の影響で指の骨が変形してもギターを弾き続け、幼い頃に事故で欠損した指さえも「この長さだからかえって弾きやすいんだ」とプラスに考えようとする強さ。
また、このようにいつも病気と向き合われていたせいか、TAIJIさんにとっては病院は痛みと苦しみを理解してもらえる安心できる場所であり、医師や看護師とも仲良しだったみたいです。
メタル好きな医師に楽器をプレゼントしたり、また福祉施設にドラムセットを寄付したこともあったとか。
他にもTAIJIさんはお年寄りや子供、動物にも優しかった。ご近所さんとも仲が良く料理が得意。別冊宝島の「おばあちゃんの知恵袋」が大のお気に入りだった。
物まねが好きで田中邦衛さん、ジャイアン、福山雅治さん、石塚英彦さんなどがレパートリー。アフォガードが好き。可愛いカフェも好き。自宅のトイレをキュートに飾っていたのは赤塚さんではなく実はTAIJIさん。
あと、お裁縫も得意。これはYOSHIKIさんの本にも書かれていました。インディーズ時代のレザーに砕いたガラスをはめ込んだ、過激で凝った衣装なども全てTAIJIさんの作品。Toshlさんも彼手作りの「高そうな衣装」を着ていたが原価は1~2万ほどだったという。
赤塚さんの目を通して見た素顔のTAIJIさんは、優しく器用で卓越したセンスの持ち主。そして子供のように無垢な方。
しかし一方で彼女が胸を痛めていたのが「とても繊細、しかしキレたら歯止めが利かず、接する時は気を遣う」。TAIJIさんがたぶん周囲からはそのように思われていたかも、ということでした。
その心の病は長い期間、誰からも理解を得られず、正しい治療が行われていない状態でした。出会った頃の彼は、処方されていた薬の量が多すぎることで精神薬の依存症になっていました...........依存性の高いタイプのものはよくない作用を及ぼします(TAIJI-沢田泰司-134ページより)
TAIJIさんはそれでも定期的に心療内科に通い、病と真摯に向き合っていました。さらに赤塚さんが彼をフォローし見守ることで症状は着実に改善されていきます。
2011年春。お二人はTAIJIさんのお気に入りの大切な場所などへよく出かけていました。そこで語られた幼い頃や過去のこと。
またTAIJIさんが放浪時代、上野公園で長い期間を過ごした理由は別れたお子さんとの愛しい思い出の場所だから。そんな話を聞いたのもこの頃だったようです。
亡くなる年の春、TAIJIさんはまるで波乱万丈だったけど楽しかった人生をなぞるように、自分の記憶をリピートし、私と共有しながら振り返っていました。昔の日々に思いを馳せて懐かしみ、そのすべてを慈しんでいるようでした(TAIJI-沢田泰司-150ページより)
その頃はTHE KILLING RED、TAIJI Shu proiect、TAIJI with HEAVEN'Sのバンドメンバーとしての活動、ソロアーティスト沢田泰司として参加した海外のステージ。LOUDNESSやXJAPANと再共演を果たしたのもちょうどこの頃。
2009年から2011年にかけて、TAIJIさんは生き急ぐかのように多くのアーティスト仲間との再会を果たしていました。いま思えばそれはまるで必然だったかのような再会でした(TAIJI-沢田泰司-156ページより)
本には彼を理解してくれる大切なたくさんの友人、彼を慕う後輩の方々。そのようなお仲間とのエピソードもたくさん紹介されていました。どれもとても心温まるものです。
そうした彼が積み重ねてきた人間関係が、亡くなった後も赤塚さんを支える大きな力になったのではないでしょうか。
二人が知り合ったのはTAIJIさんが亡くなる約3年前。赤塚さんのご実家がTAIJIさんかかりつけの病院の近くだったから。ということみたいです。また最初に彼と仲良くなったのはお母さまの方だったとか。
それをきっかけに家族ぐるみのお付き合いへと発展したみたいです。TAIJIさんは彼女のご両親もとても大切にしていらしたようですね♡
やがて辞めたスタッフの代わりに赤塚さんが彼の窓口となり、TAIJIさんは常に彼女を帯同。二人はたくさんの時間を一緒に過ごしていました。
とても密度の濃い3年間でしたね。幸せで穏やかな毎日を過ごされていたのですね。それだけにそれが突然断ち切られてしまったことが本当に悔しくてたまらない。お二人で20年30年と一緒に年を重ねていただきたかったです。
何も言わずに突然いなくなってしまったTAIJIさんは空から降りてきて突然に空に帰ってしまった人ではない何かだったのではないかという感覚に陥ることがあります。それは不思議な感覚で不思議と穏やかな気持ちを運んでくれるのです(TAIJI-沢田泰司-153ページより)
Mr. PhotogenicX時代のTAIJIさん