天国でも仲睦まじき初代政宗様のお墓は夫婦そろい踏み | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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今年20204年は辰年ということで、昨年最下位だった名古屋にあるプロ野球セ・リーグの”竜”の付く球団はさらなる飛躍を求められるかと思いますが、”竜”と言えば我らが伊達政宗様も”独眼竜”政宗とまあ存命中は呼ばれてはいませんが、いつの頃からかそう呼ばれるようになりまして、今では枕詞のようにセットで呼ばれることのほうが多いかもしれません。

 

どうしても、”伊達政宗”というとみなさんがよく知る秀吉・家康に仕えた17代の政宗様にスポットライトが当たってしまいますが、伊達家中興の祖と呼ばれ、17代政宗様の名前の元となった9代伊達大膳大夫政宗様(儀山公)を歴史の片隅に置き去りにしてしまってはいけません。

 

本日は、”初代ウルトラマン”ならぬ”初代伊達政宗”について紐解いてくことにいたしましょう。

 

初代政宗様は伊達家8代目当主・伊達宗遠の嫡子として1353年に生まれました。1377年25歳のときに父から家督を譲られ伊達家の9代目当主となります。(当主としては遅咲きかな?ちなみに9代政宗様の弟はサンドイッチマン伊達みきおさんの先祖”大條宗行”)

建久3年(1192)、鎌倉幕府誕生とともに、置賜の地はもともと長井氏によって支配されていましたが、天授6年(1380)、父宗遠と初代政宗の伊達親子タッグによって長井氏は滅ぼされ米沢城を奪取、以降十四代の稙宗に至る162年間、屋代(高畑城)が伊達家支配の拠点とされました。

2代目政宗様が生まれたのは米沢城(諸説あり)以後、1591年の葛西・大崎一揆扇動疑惑により豊臣秀吉に召し上げられるまで置賜地方は伊達家の基盤となった場所でもありました。

この初代政宗様の武勇伝として凄いところが、中央政府にも臆することなく喧嘩を吹っかけたところでしょうか。
 

1399年、鎌倉公方・足利満兼(尊氏の四男・基氏の孫)が、弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣し、伊達家に対して領土割譲を求めてきた事に対して、初代政宗様と大崎詮持が反発。鎌倉公方と言えば一応、足利将軍家の支店みたいなものですから、そこのお願い事を真っ向から拒絶して反抗したのですから、相当なものです。(初代政宗様の奥方の母は将軍義満の生母の妹であり、義満は政宗様を支持!足利家同士も一枚岩では無かったのですね)

 

かくして、のちに”伊達政宗の乱”と呼ばれる鎌倉府と関東管領を相手にした反乱に発展します。

しかし、相棒の大崎詮持が自刃に追い込まれ、初代政宗様自身も善戦をするのですが、最終的には降伏を余儀なくされてしまいます。

ところが、これでは終わらないのが不屈の”政宗魂”。再起を期すべくリベンジマッチに討ってでますが、無念にも1405年9月に高畑城にて息を引き取ります。(享年53歳)

 

和歌をこよなく愛し、文武に長けた歴代伊達家の「10番」がユニフォームを脱ぎました。(のちにこの10番は、同じ名前のエースが引き継ぐこととなります)

まるでナポレオンのような一生を送った初代政宗様のお墓は複数あるのですが、そのうちの3ヶ所(山形県高畠町竹森野手倉集落、山形県東置賜郡高畠町資福寺跡、宮城県七ヶ宿湯原鹿園山 東光寺)のお墓は当時としては大変珍しいことに3つとも、正室の蘭庭明玉禅尼様と夫婦並んで墓石が残っているのだそうです。

 

もし、機会がありましたら3カ所を巡って、夫婦の絆を深めるきっかけにされてみては?

きっとご利益があるはずです。(^^)

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます