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奥州の雄、我らが伊達政宗様。生き馬の目を抜く戦国時代を豊臣秀吉、徳川家康の臣下の時代を過ごし、天下泰平の世になってからは初代仙台藩主として領国経営に力を注ぎ、徳川幕府とも良好な関係を築き、70年の生涯を全うした。
そんな政宗様には、心を許し会える、肝胆相照らす「親友」と呼べる人はいたのでしょうか?
実は伊達政宗様の一番の親友は、徳川家光公だったのではないかとの見方があります。
政宗様と徳川家光公は、親子?いや祖父と孫のような年齢差があり、一方は将軍、一方は一外様大名という立場であったにも関わらず、ひじょうに仲が良かったと言われています。政宗様は、家光公が幼い頃から面倒を見ており、家光公も政宗様を慕っていたと言われています。
有名なエピソードとして、こんな話がありました。
2代将軍秀忠公がこの世を去り、家光公が20歳で第3代将軍に就任したとき、参上した諸大名たちの前で、家光公が「自分に代わりたければ」と挑発発言をし緊迫した中で、政宗様はずいと前に進み出て。3代将軍家光公に対して、堂々とこう申し上げました。
「万一異心を挟む者があるならば、自分に仰せつけていただきたい、自分は早速兵を率いてその不逞(ふてい)の者を征伐する」
政宗様が3代将軍家光公に臣従する意思を、真っ先に表明したことで、諸大名も有無を言わさず臣従する流れになり、二人の信頼関係がさらに深まったのかもしれません。
政宗様はただ単に、家光公の引き立て役だった分けではありません。時として、将軍を諫めることもありました。
家光公が鷹狩りを楽しんでいる姿を見掛けた政宗様が、あえてその場を輿で通り過ぎ、江戸で家光公に謁見した際に、供回りも付けない無防備な状態で遊猟に興じていたことを諌めたという逸話が残されています。(さすがです)
立場の違いを超えて、こんなことが言えたのも家光公のことを慕う政宗様だからこそ、だったのかもしれません。
他にも酒宴の席で、家光公に帯刀を許されていた政宗様が酒に酔って将軍の前で寝てしまったときに身に付けていた大脇差の中身を確認したら、実は木刀だったというエピソードがあります。
(政宗様してやったり?いえいえ、それだけ上様には臣下の姿勢を示していたということ)
そんな二人の関係にも終わりのときが訪れます。
寛永13(1636)年5月1日。病状も芳しくないまま、政宗様は将軍家光公に拝謁。
既に、病も治せる状況ではなく、手遅れの状態。自らの拝謁も、これが最後となる。伊達家の行く末を案じてのことだったのでしょうか。それとも、孫のような間柄の3代将軍家光公の顔を、もう一度見ておきたかったのか。
政宗様のあまりの衰弱ぶりに、家光公は驚きを隠せず。すぐに、江戸中の社寺に、政宗の病気平癒の祈祷をさせ、主治医まで派遣して治療をさせたと伝えられています。
5月21日。今度は、家光公が、自ら江戸の伊達屋敷に向かい、政宗様を見舞いました。
このとき、政宗様は身支度を整えて出迎えたそうです。でも、これが最後の対面となりました。
そして、その3日後の24日の午前6時ごろ。政宗様永眠、享年70歳。
将軍・家光公は政宗様の死をとても悲しみ 江戸で7日 京都で3日喪に服すように命じます。
これは“徳川御三家”以外では異例中の異例であり、いかに政宗様に敬意を表したかったかが伺える出来事です。
政宗様にはもちろん、他にも多くの親友と呼べる人物は存在したのでしょうが、立場も年齢も違うのにこれだけ「深イイ話」が残されているなんて、素敵な関係だとは思いませんか?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。