絶交状態は47年も続いた、仙台藩と岡山藩のこじれた関係 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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小学生の頃であれば、友達との喧嘩がエスカレートすると「あなたとはもう絶好よ!」みたいなシチュエーションはあったかもしれない。(今の時代はどうだか分かりませんが)

 

でも大概はお互いが歩み寄り、早めに仲直りをしてしまうもの。だって、こじれればこじれるほど修復が難しくなり、厄介になるものである。

 

ですが、これが武家社会だったりするとお互いのメンツやプライドが邪魔をして、どうにもこうにも収まらないので始末が悪い。

 

今日は仙台藩5代藩主伊達吉村公の時世に起きた、仙台藩と岡山藩の絶好話を紹介しましよう。

 

さて、伊達吉村公といえば、政治に対する取り組みも人並みに優れ、和歌・書画など芸術面にも優れた才能を示し、40年間の治世中には享保の改革を断行し、窮乏していた仙台藩の財政を再建して、中興の祖と語られるほどの名君でした。官位は従四位上左近衛中将陸奥守に叙せられ、72歳という長寿を全うしました。

 

そんな非の打ち所のない伊達家のエース的な働きをした吉村公なのですが、思わぬところから問題が持ち上がります。


元文2年(1737年)10月5日、吉村の娘・和姫の夫である岡山藩主・池田継政の使者と称する旗本が江戸の仙台藩上屋敷を訪問し、和姫と継政の夫婦関係の悪化と彼女の病気を理由に離縁と絶交を通告してきました。対応した仙台藩の家老は責任が全て和姫にあるような使者の言い分に反発して、継政にその説明を求めたいと伝えました。

 

これに対して使者はその件に関しては継政に伝えるが、離縁届は既に老中に提出済であると回答。報告を受けた吉村公は既に離縁届が出されてしまったのであれば離縁は止むを得ないが、本来は離縁届は共同で幕府に出すものなのにどうして事前の挨拶も話し合いもなく、一方的に離縁届を出したのか!として伊達家側からも池田家側に対して絶交を通告した。

 

「絶交には絶交返し」武士のプライドを掛けた、エンドレスバトルのゴングが鳴らされました!

 

当時の慣例では離縁を原因として当事者双方の家が絶交したとしてもほとぼりが冷めた頃に矛を収め和順(和解)が成立するものだったのですが、池田家側の態度を「無礼」とみた伊達家の反発は収まらず、仙台藩と岡山藩の絶交状態は47年後の天明4年(1784年)まで続いたのだそうです。

 

そう言えば、伊達政宗様が浅野長政に「絶縁状」を送り付け絶交状態となり、それが和解したのが平成6年(1994年)だからつい最近。実に398年も絶交していたというのが話題となりました。

 

武家同士の絶交は一度こじれると、仲直りは厄介だということなのですかね。

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。