みなさんがよく知る仙台駅は本当はあの場所ではなかった!? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m

 

仙台の玄関口と言えば、東北新幹線で降り立つ「仙台駅」ですよね。

 

ペデストリアンデッキがあり、今や駅前はパルコ1、2やエスパル東館などが立ち並び、大変な賑わいを見せています。

 

誰もが当たり前のように思っている、仙台駅とその周辺。

 

でも今ある仙台駅が本当はこの場所に出来るはずではなかったとしたら?

 

今日はそんな今から137年前の話を紐解いてみることにいたしましょう。

 

明治19年(1886年)4月、宮城県を訪れた政府の鉄道局長官井上勝と、日本鉄道社長奈良原繁は、松平正直知事(同年7月までは県令)に仙台周辺のルートと停車場(駅)の場所を明らかにしました。そのルートは長町からそのまま直進し、宮城郡南目村薬師堂北裏(現在の宮城野原の北端の榴ヶ岡下あたり)に仙台駅をつくり岩切に進むという計画でした。

 

しかし、松平知事がこれに対して猛烈に反対し、現在の仙台駅論を主張。

なぜかと言うと、それには立派な理由があった。

 

それまで伊達政宗様が仙台を開府以来、仙台城周辺は確実に発展を遂げてきて、東北の一大拠点都市となっていた。

なのに、肝心の駅が市街地を通らないということは、貨物輸送に不便が生じるだけではなく、なにより客は先の岩切か長町で降りて宿泊をする。

今では東北一の歓楽街と言われる国分町にも人が立ち寄らなくなってしまう。

さすがに日本鉄道側は急なルート変更に戸惑ったが、了承しこれに伴う工事費負担増額分の半分の負担を要求。

 知事は東京の銀行からお金を借りてさっさと会社に支払いを済ませてしまった。

ところが、そうスムーズにことは進まない。

東京にある旧仙台藩士の会「仙台議会」がこれに猛烈に反対!

なんと日本鉄道は圧力に負けて、もらったお金を返済してしまう。

しかし、ここで市民の寄付を集めて再度支払いを済ませる。

こうして、あらためて仙台駅が現在の地に決定をみることとなったのです。


めでたく明治20(1887)年12月25日に仙台駅は開業の運びとなりました。

 

めでたし、めでたし 一件落着。

擦った揉んだがあった「仙台駅建設計画」。でも、このおかげで観光客の方が仙台城に足を運んでもらえるようになった分けなのですから、当時の知事さんに感謝ですかね。(^o^)


※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。