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「どうする家康」との勝手にコラボ企画、「どうする?政宗」。
今回をもって、この「どうする?」リシーズは終了とさせていただきます。
最後を締めくくるのは、知る人ぞ知る伊達政宗様の”黒歴史”「どうする?」ではなく、「どうした?」と言ったほうがふさわしいのかもしれません。
慶長20年5月7日(1615年6月3日)の大阪夏の陣での出来事です。
ここで一人の武将を紹介しましょう。
「神保相茂(「じんぼうすけしげ)」。彼は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、父神保春茂が豊臣秀長、豊臣秀吉に仕え、大和国に6,000石を与えられました。
父亡きあと跡を継いだ相茂は大阪夏の陣に出陣。300の小勢ながら水野勝成隊に属して勇敢に戦いますが、5月7日船場口にて明石全登隊が越前勢左翼を攻め崩したために水野勝成隊は混乱に陥り、激戦の最中神保隊馬上32騎、雑兵293人は激戦の最中に全滅し、神保相茂も討ち死にしたと、江戸幕府の公式記録『徳川実紀』には記されております。
ですが、この話にはもう一つの説が伝えられているのです。
なんと、我らが伊達政宗様の軍勢が味方である神保相茂の軍を鉄砲で一斉射撃をして壊滅させてしまったという耳を疑うような”黒歴史”。
これは、俗に「伊達の味方討ち」と語り継がれておりまして、島津氏の『薩藩旧記』には「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」と書き記さてているのです。
これに対して神保相茂の遺臣が水野氏と本多正純を介して伊達家に抗議を行ったものの、伊達政宗様は「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と開き直りとも取れる弁明を行ったそうです。
方や7,000石の外様である神保相茂と方や60万石の大名である伊達政宗様とでは争いにはならず、結局伊達家にはお咎めなしとなったそうです。
”崩れかかってきた小隊を前に、巻き添えを喰らっては大変!”
”でも、それって味方だぞ!同士討ちってありえないだろう”
”同士討ちは一歩間違えば、あとの責任追及がハンパないかも!”
「どうする?政宗」
きっと政宗様は、畠山義継に父輝宗様が拉致された「粟ノ巣の変」のときのような苦渋の決断を迫られたのだろうと思います。(思いたいです)
結果的には「どうした?政宗」にはなってしまいましたが、おそらく情に厚い政宗様ですから、その後神保相茂の命日である5月7日には、毎年心の中で手を合わせていたんだろうと思います。(思いたいです)
さあ、あなたがもし政宗様だったら、どうする?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。