実は伊達家は存在しなかったかもしれない!? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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伊達政宗や伊達家のもし、「たら・れば」を大胆仮説で検証してみたいと思います。

今日のテーマは、「実は伊達家は存在しなかったかもしれない」です。

まずは、伊達家がどういう経緯で誕生したのか?

 

それを追って、時計を鎌倉幕府成立の頃に戻してみるとしましょう。

 鎌倉幕府の初代征夷大将軍の源頼朝と義経の仲が冷え切って幾年。振り返れば、源氏のため、兄頼朝のためにひたすら忠義を尽くしてきた九郎義経。平家という当時の悪の帝国を壊滅させた立役者のはずなのに、調子に乗ってしまったというのか、大天狗(後白河法皇のこと)に踊らされてしまったからなのか、源兄弟の心のベクトルは完全にすれ違いを起こしてしまった。

頼朝から追われる身となった義経。ここで、頼朝は大江広元らのアドバイスを受け入れて、次のような手を打つ。平家を滅ぼした今、次のターゲットは奥州藤原氏。だけど、大義名分も無いのにやみくもに戦は仕掛けられない。そこで、西国に逃亡した義経の包囲網を徐々に狭めていって東国、奥州平泉へ逃げ延びるように誘い込む。なんともいやらしいが理にかなったクレバーな作戦がまんまと実行に移され、義経は平泉に辿り着きます。

義経をかくまった罪で泰衡を追求。それを口実に挙兵し、奥州藤原氏を滅ぼす。

かくしてこのプラン通りに事が運んで、「奥州合戦」、「奥州討伐」、「文治の役」と呼ばれる戦へと発展していきました。

頼朝は御家人たちに総動員令を発します、その軍勢の数は28万4千騎。そのメンバーの中に、頼朝のいとこである伊達家の始祖朝宗(ともむね)様にもお声が掛かった。当時、朝宗様は常陸国(今の茨城県)真壁郡伊佐荘中村に住んでおり、名字は「伊佐」または「中村」と名乗っておりました。「伊佐朝宗」OR「中村朝宗」。

そして、奧州合戦で軍功を上げたので、その恩賞として伊達郡(今の福島県伊達市)を拝領し、領内の桑折郷高子岡に城を築いて居住するようになります。初めは本拠地である常陸国がメインで、伊達郡はサブみたいなもんだったのですが、そのうちに、三代目の伊達義広様は桑折郡の粟野に屋敷を構えて住んだり、七代目の行宗様なんかは常陸中村と伊達を行ったり来たりしていた。それが八代、九代あたりから伊達郡を本拠地として住み始めたということのようです。

前述した朝宗様のように、住んでいる地名を名乗るという習わしから伊達地方を治めていて、伊達に住んでいたから代々「伊達」を名乗っていったという分けです。

こうして、「伊達家」が歴史の表舞台に登場したということになるのです。

伊達家にしてみれば、東国(関東)には有力なライバルが多いんで、与えられた陸奥の国の方が治めやすいし、領土拡張も期待出来たってことだったでしょうか。

つまり、ここにこんな「たら・れば」仮説が成り立つ。

1.もし、頼朝と義経の兄弟仲が悪くならなければ、奥州合戦も起こらなかった。

2.もし、奥州合戦が起こらなければ、朝宗は参戦していない分けだから軍功を上げることも無く、伊達郡を拝領することもなかった。=伊達家は存在していないか、別の人が伊達家を名乗っていたのかも。

ただ、遅かれ早かれ、頼朝は奧州藤原氏を滅ぼしたいと思っていたと仮定すれば、奧州合戦はあって、いとこである朝宗様も間違いなくその軍勢には加わってはいたものと推察されます。


何はともあれ、今日まで存続している伊達家にはあっぱれ!です。!(^^)!

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。