伊達政宗の従三位権中納言という位はどれくらいのものなの? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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覚えれば、その知識が血となり肉となる。

 

はい、今日も元気にみなさんと伊達政宗様についてのお勉強をすることに致しましょう。

 

伊達政宗様が60歳の時、1627年朝廷から「従三位権中納言」の位階と官位を頂きました。

 

これを「位階=従三位」と「官位=権中納言」に分解して分かり易く説明していきましょう。

 

まず始めに、覚えておいて欲しいのが、「官位相当性」という言葉です。要は、このくらいの「位階」の人じゃないと、このくらいの「官位」には付けませんよという決まりがあったのです。

(位階と官位はそれなりにセットもの、だったのです。)

 

それから、「源平藤橘」に代表される「極位極官」という言葉。これは、例えば「源氏か平氏か藤原家か橘家の家の人じゃないとこの官位には付けないよ。とか、徳川御三家でも、水戸徳川家がもらえる最高の位階と官位はここまでだよ、という風にだいたい決められていたのです。朝廷もあんまし乱発はしたくなかったし、何より徳川幕府が規制を設けていましたからね。

 

ではまず、「位階」ですが、これってあの有名な「聖徳太子」(今は厩戸皇子って言わないと駄目なのかな)が定めた「冠位十二階」(位の上下を冠の色で区別たもの)が出発点。(ちなみに紫が一番偉いのね)

 

それから701年の大宝律令と718年の養老令によって、位階が固まっていったのです。

 

じゃあ、まず「位階」ですが、これは最高位が正一位その下が従一位、それ以降は「正」と「従」が三位までありまして、4位~8位までは従四位上と下という風に「上」と「下」という呼び方に変わります。

 

正確には「正一位」から30段階あるのですが、このうち一般的に従三位以上の人達が「公卿」と呼ばれておりまして、朝廷のトップクラス、高級官僚にあたります。「公卿」は「殿上人」とも呼ばれ、天皇の日常生活をする「清涼殿」にも立ち入ることが許された、まあ「神」の領域の人たちってことになります。

 

つまり、政宗の「従三位」と言うのは、立派な「公卿」にあたる分けです。上から数えても6番目ですから、相当上の位の位階だったということが理解出来ますね。(三位までを「卿」、それ以上は「公」を使う)

 

次に「官位」ですが、こちらのトップは太政大臣ね。武士で初めてなったのはあの「平清盛」です。

以下、左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議・少納言とあるわけなんですが、ここで覚えておいて欲しいのが「令外官」という言葉。(もう少しだから、頑張って付いてきてね)

 

実は、最初の律令制度においては太政大臣・左大臣・右大臣・大納言ぐらいしかなかった。

ところが、お家のため?皇族・貴族が子孫繁栄に励んでいったものですから、分け与える領地も官位もどんどん足りなくなっていきました。

 

そこで、編み出した奥の手が「令外官」。要は臨時の役職をどんどん増やしたのです。

驚きなんですけど、「摂政」も「関白」も「内大臣」も「中納言」もあの「征夷大将軍」も「鎮守府将軍」も「検非違使」も全て「令外官」、つまり後から作った臨時の役職だったりするのです。

 

なので、政宗の「中納言」も立派な「令外官」。でも、徳川幕府の江戸時代、武家のトップは文句なしで「征夷大将軍」であり、その当時の「官位」はいわば、自分に箔をつけるための「ブランド品」のようなもの。それだけ、朝廷の権威は失墜しており、幕府に養われていたと言った方が早いかもしれません。

 

ちなみに、「中納言」の前に付いている「権」というのは、これも「臨時」を意味するのです。

神社の代表者を「宮司」(ぐうじ)と言いますが、この人の下の役職が権宮司(ごんぐうじ)=副代表。

禰宜(ねぎ)は宮司の補佐役で、その下に権禰宜(ごんねぎ)が置かれているのです。

 原則として宮司・禰宜は各神社に1名ずつなので、それ以外の人は「権」が付く。

 

だから、「中納言」の定員数は決められているのだけれど、臨時で設けた「中納言」なので、「権中納言」

となります。分かり易く言うと、相撲の番付表で「正横綱」になれない横綱は「張出横綱」って言うんですが、この「張出横綱」みたいなものだったということになります。

 

まあ、そうは言っても繰り返しになるけれど、「武士の世」、「徳川幕府の世」、「天下泰平の世」にあっては

朝廷からもらう「位階」も「官位」も徳川将軍家に認められないと、もらえなかったというのは紛れもない事実なのですから、御三家でも譜代でも無いのに権中納言という位を頂いたということは、いかに政宗様が徳川将軍家に認められていたかということを物語っているのです。

 

ちなみに武田信玄は従四位下で亡くなってから、従三位になっているし、上杉謙信は従五位下で亡くなってから従二位になっているんだそうです。

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。