政宗っていう名前が付けられなかったかもしれない | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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今日は我らが伊達政宗様の「政宗」という名前に迫ってみたいと思います。

ご存知の方も多いかと思いますが、「伊達政宗」って実は二人存在するんです。

私たちが良く知る「独眼竜」こと大河ドラマで渡辺謙さんが演じた伊達家17代当主の政宗様が超有名なんですが、実は9代当主の「伊達政宗」(同姓同名)様が存在します。

では、ここで少しばかり、9代政宗様ってどんな人だったのかを説明をします。

 

時代は南北朝時代から室町時代。24歳で父宗遠から家督を相続すると、3年後には出羽・置賜郡に侵攻し、そこを治めていた長井氏を滅ぼしてしまいます。以降、秀吉の奥州仕置まで200年余りに渡って置賜は伊達氏の支配下に置かれることになります。17代の政宗が生まれたのは米沢城だから、その基盤は9代の政宗様が築いてくれたってことになるんですな。

この9代政宗様も実は、17代に負けず劣らずけっこうなやんちゃ者だった。

足利幕府の監視役の鎌倉公方が領土割譲を求めてきた時には、これを断固拒否し大崎氏と同盟を結んで鎌倉方の軍を撃退してしまう。(ちなみに鎌倉方を3回撃退している。でも、それって幕府に弓を弾いてるっていうことなのでは?)その後もこの鎌倉方との抗争が続く中、52歳でこの世を去ってしまう。伊達家としては彼の時に領地が一番拡大したんで、「中興の祖」なんて呼ばれるようになりました。 

17代の政宗様は父輝宗公がこの9代にあやかって、息子にも「中興の祖」みたいな立派な武将に育って欲しいという思いが込められて「政宗」と名名付けられたというわけなのです。(よくぞ、名前負けしなかった17代にあっぱれ!)

ただ、この「政宗命名説」には別な理由もあったと言われている。この9代政宗以降、伊達家は一転して足利将軍家と融和政策へと転換する。足利将軍家と良好な関係を保っていくために、当主は代々「偏諱」といって将軍の下の名前を一文字頂いて自分とこの家の通字の下に付けるようになった。

足利義稙→伊達稙宗 足利義晴→伊達晴宗 足利義輝→伊達輝宗といった具合にね。

ところが、ご承知の通り応仁の乱から天気が下り坂となってしまった足利将軍家。気が付けば、もはや風前の灯。誰かがふぅと息を吹きかければ、消えてしまうような存在。なので、ご機嫌取りのための「偏諱」ももはや意味が無くなってしまった。仕方なく(?)「中興の祖」として伊達家のエース的存在だった「政宗」の再登板と相成ったという分けなのです。

ということは、次のような仮説が成り立ちます。

1.もし、足利将軍家が低迷していなかったら、ご機嫌取りのための「偏諱」作戦で私たちの良く知る「政宗」ではなく、別な名前になっていたのかもしれない。仮に最後の将軍足利義昭だとすると、昭宗(あきむね)になるのかな?「伊達昭宗」、「独眼竜昭宗」う~ん、なんかしっくり来ないような、、、。(-_-;)

まあ、伊達家が戦国時代を生き延びられたのも、柔軟にその時勢の流れに乗って来れたから。

豊臣秀吉→伊達秀宗 徳川秀忠→伊達忠宗 徳川家綱→綱宗ってな具合に豊臣・徳川の世になってから得意の「偏諱」作戦も再開しましたし、そういう意味ではやっぱり伊達家って世渡り上手だったのね。!(^^)!

 ※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。