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コロナ禍において、感染抑止の観点からスタートした「新しい生活様式」。
三密防止にソーシャルディスタンスにステイホーム。
最近では感染者数も減少傾向で多少緩和された感はありますが、季節は秋から冬へと切り替わりの時期でもありますので、まだまだ注意は怠らないようにしたいものです。
さて、日本史を振り返ってみますと、天皇だったり、将軍だったり、はたまた時の権力者を背後で操っていた人などが、極刑なら斬首、切腹となる分けなのですが、その次に重い刑が島流しなどが一般的。
でも、そこまでの重刑ではないけれど、とりあえず断罪していることを世間に知らしめるために「一時的に閉じ込めておけ!」的な刑罰が存在しました、種類としてはこんなものがありました。
【遠慮】自主的に行う意味合いが強く、門を閉ざして日中は外出を控えます。ただし、訪問客は受け入れてもよく、夜も目立たないように外出すれば黙認されました。僧侶なんかも科せられた刑です。
【逼塞】門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。閉門より軽く、30日、50日の2種類あり、僧侶も科せられた刑です。
【閉門】蟄居より軽く、逼塞より重い監禁刑です。屋敷の門扉は交叉された竹竿で閉ざされ、召使いなどの出入りは禁じられ、一室で謹慎します。50日と100日の2通りありました。主君の喚起に触れたり(怒らせたり)、不手際(失敗ね)を起こしてしまうと命じられることが多い刑でした。
【蟄居】幕末に徳川慶喜が上野の寛永寺に蟄居したことで有名ですが、偉い人が命じられる刑としてはメジャーです。蟄居には「蟄居・隠居蟄居・永隠居」の三種類があります。
屋敷内の一室に自ら閉じこもり、髪結いも髭剃りも入浴もせず(臭かったでしょうね)室内から一歩も出ません。例外は便所のみで、食事は家族が運びます。
ちなみに、「隠居蟄居」は家督を譲り、当主としての権限を一切失う。ただし、家禄や武士としての身分はそのままです。「永蟄居」は改易の一歩手前の終身刑のようなもので、座敷に牢格子をはめられることもあり、一歩も外出は出来ませんでした。
そうしてみると、隠居蟄居は家禄が維持される点ではいいですが、一度隠居してしまうと二度と復職は出来ませんでした。失態や失政などで、若いのに強制的に隠居させられた場合、武士としてその後の人生はさぞ、悶々とした日々を送った人が多かったことでしょう。
多少前説明が長くなってしまいましたが、実は仙台藩においても、藩主が親子でステイホーム(蟄居)の憂き目に遭っていた時期がありました。
それが、仙台藩3代藩主の伊達綱宗公と4代藩主の伊達綱村公。
「いったいこの親子は何をやらかしたの?」
戦の無い平和な時代にいったい、何が?
簡単に説明をしますと、綱宗公は2代藩主忠宗公の6男。普通に考えたら跡継ぎ候補にはほど遠かった人物。ところが、運命のいたずらなのか、なぜか順番が巡ってくる人というのはいるもので、20歳で仙台藩の3代目藩主になってしまいます。諸説ありますが、酒食に溺れて藩政を顧みないので、叔父の伊達宗勝(政宗の10男)らにダメ出しをされ、最終的には「藩主失格」の烙印を押されて、逼塞→隠居となってしまいます。
お取り潰しにはならなかった仙台藩。後を継いだのはわずか2歳の亀千代(のちの綱村公)。当然2歳では政(まつりごと)は出来ませんので、先ほど登場した伊達宗勝さんが専横政治の限りを尽くします。
しかし、かの有名な「伊達騒動」(寛文事件)が起こり、藩政は一旦リセット。仙台藩は4代藩主の伊達綱村公をトップに据えてリスタートをすることになりました。
その後、お父さんの二の舞は踏むまいと、4代藩主綱村公は、君主中心の専制政治を行います。ところが、その後がよろしくありません。頑張り過ぎる綱村公、次から次へと改革も行うのですが、建築好きの造営ラッシュで財政は逼迫。家臣の忠告にも耳を貸しません。あまりの横暴にとうとう親族や家臣達の怒りが爆発!綱村公44歳の時に強制隠居となり、仙台藩主のバトンは5代吉村公へと引き継がれることと相成ります。
強制隠居の身となった元3代藩主綱宗公と元4代藩主綱村公親子。
綱宗公は享年72歳だから、50年近く江戸品川の大井屋敷で隠居生活。
綱村公は享年61歳だから、17年ぐらいの隠居生活。
仲良く親子揃って、8年ほど隠居生活が被っていた時期がありました。(もちろん、別なところでね)
まあ、蟄居や逼塞には当てはまらなかったので、不自由をすることなく、二人ともそれなりに充実した余生を送られたようで、綱宗公に至っては風流人として名を馳せ、「花鳥図屏風」などの作品も残っております。
しかし、先代藩主二人が存命のまま江戸の屋敷で隠居するということは、要はお金の掛かる上様が現役意外に二人も存在していたということ。
結果どうなっていたのかというと、5代藩主の吉村公は隠居中の元上様のために、一上様あたり毎年5万両と米10万石を送っていたそうです。ダブっていた8年間はその2倍の10万両の20万石ということになります。
当時の吉村公としてはさぞや、頭の痛い日々が続いたことでしょう。(-_-;)
そんな吉村公は藩政を立て直しまして、今では仙台藩中興の祖なんて呼ばれるようになりました。
ちなみに、仙台藩の歴代藩主13人は、こうなっています。
①政宗・②忠宗・③綱宗・④綱村・⑤吉村・⑥宗村・⑦重村・⑧斉村・⑨周宗・⑩斉宗・⑪斉義・
⑫斉邦・⑬慶邦
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。