今朝投稿したブログ「しまった」の効用の続き。

 

守りと成長:
政治家はミスが許されない。裁判での検事や弁護士もミスが許されない。政治家や裁判のスタイルで人生を送るのは窮屈だ。ステータスが高くなると、その前提となるものを壊さない様に、ミスを認める事が難しくなる。ミスを胡麻化し続けると、説明が付かなくなる負のスパイラルに陥るリスクも大きく、それは大変なストレスだろう。守る物があると代償として犠牲にする物が増える気がする。「しまった」と認めて、そこから仕切り直しで再スタートする方が、余程楽で人生も豊かになる筈だ。ミスを認めず今の自分が正しいという立場を取るのは、守りに入る事であり自己暗示も含めて成長の機会を失っている事になる。

 

「しまった」:
会社員人生を振り返っても、職責が高くなるに連れて、ミスが許されなくなる事が増える。新人はミスして成長するのが仕事の様な物だが、数年後に新人を教える立場になれば指導者としてミスは許されなくなる。課長、部長、役員、社長と職責が上る都度、守る範囲・ミスが許されない範囲も増えて行く。
その緊張感が人の成長に繋がる重要な要素でもあるので、公的な組織では不可欠な要素なのだが、それでもミスは付き物だから、その時はなるべく「しまった」と認めた方が良い。増してや私生活では、訴訟とかでもない限り、守るものはプライドとか高が知れているので、あっさり「しまった」と言う方が楽になると思う。

自分の中で守りに入る範囲をなるべく狭くし、それ以外は常に試行錯誤しながら変化していくという感覚。言ってみれば「自分はこの程度の者」という割り切りというか、開き直りの様な感覚で居ると、ミスした時に隠そうとする遺伝子の厄介な信号に押し切られる事なく、比較的楽に「しまった」を言える様な気がする。

 

”どうする家康”のミス:

そんな事を考えていた時に、今年の大河ドラマ「どうする家康」の録画を見たのだが、一向一揆の和睦の後で、謀反を働いた本田正信からの諫言に対して、家康が泣きながら「悔いている」と答える場面があった。どうやら今年の大河は頼りない家康がミスを繰り返しながら、そのミスを胡麻化さずに認めつつ成長していく物語になりそうで、今後が楽しみだ。