「心の傷・回復への道」LT(ラビングタイム)
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2017218(土)・・・「新しく生まれるとは!」

春一番が吹き荒れているという感じの一日でした。風は強かったですが、でも、暖かな南風が一気に春を運んできたような陽気になりました。

 

さて、今日私に与えられました聖書のメッセージです。     

ヨハネ33節『イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』

  ニコデモはユダヤ人の指導者でした。70人からなるユダヤ社会の最高法院(サンヒドリン)のメンバーだったのです。そして、熱心なパリサイ人でした。パリサイ人とは、厳格に神様の律法を生活に適用させていた人たちです。安息日には仕事をしてはならない、といった十戒(出エジプト記20章)の律法を生活に適応させるために、細かな規定を律法学者たちが造りました。ミシュナという、安息日にしていい事と悪いことの表です。それの解説書がタルムードです。

 

パリサイ人たちは、律法学者の作ったあらゆる規定を守るために、普通の生活から、自分たちを全く区別していきました。例えば、安息日には、縄の結び目を作ってはならない、という規定がありました。では、井戸水を汲むためにどうしたかというと、桶に縄を結び付けられないから、女性の腰ひもを結び付けて代用しました。それは許されていたからです。こんな具合に、規則と規定、そしてそれからのいい逃れ、屁理屈のような理論を真剣に考えて、生活に適用させていったのです。そのようなことがまさに、律法学者やパリサイ人にとって、生死の問題でした。それが宗教でした。それが、彼らにとっては神を喜ばせ、神に仕える事だったのです。

 

 私たちも、ニコデモたちと同じような考えの奴隷になってはいないでしょうか。周りの目を気にして、情報や流行などを追い求め、その型に入れこまないと時代遅れのような気持ちになってしまう。そして、この世の価値観と知りつつも、周りと比べて一喜一憂する人生。あるいは、現実逃避しつつ、一生懸命、己の満足のためにお気に入りの情報だけを周りに集めて生きる。

 

『ニコデモは、主と議論をしようと思ってやってきたのであったが、イエスは真理の根本原則をはっきりとお示しになった。主はニコデモに言われた、あなたにとって必要なのは、理論的な知識よりもむしろ霊的な生まれ変わりである。あなたは、好奇心を満足させるより、新しい心を持つ必要がある。あなたは天の事物を理解できる前に上からの新しいいのちを受けなくてはならない。この変化が起こって一切のことが新しくなるまでは、わたしの権威やわたしの使命についてわたしと議論しても、その結果は、あなたにとって救いの益とはならないと。』(エレン・G・ホワイト 希望への光749頁)

 

 イエス様は、上からの新しい命を受ける、つまり、新たに生まれることについて語られました。私たちの命の再生、再創造ということです。

 

 神の国は、あなたがたが思っているような、この世に限ったことではない。それは、永遠に続くように造られた真実の世界のことである。それは、愛という空気に包まれた空間だと説明されました。その愛の風がつくりだすものは、よどんだ人間の邪悪さを、誠実、平安、柔和、親切、喜びといった新鮮な愛の香りに変えてしまうと言われました。そして、滅んでしまう命を、永遠の命へと生まれ変わらせるのです。

 

 イエス様は、神様の律法は、私たちが心から愛し合うためにあることをハッキリと示されました。しかし、その律法はニコデモたちのように、理論武装しても、守れないことを認めること。愛し合うためには、罪ある己の力に頼るのをやめて、神様の愛に委ねること。それは、イエス・キリストにあって、完成していくものであることを示されました。

 

 新しく生まれ変わるとは、イエス様が、歩まれたように人生を歩むこと。つまり、神様を愛し、隣人を愛し、そのために、イエス様の品性に近づくように成熟を目指し、周りの必要のために奉仕し、イエス様の愛を分かち合って生きる事。その決意の表明が真のバプテスマ(洗礼)です。そうした時に、新しく永遠に生きる命へと移されることを示されました。

 

 でも、その前に、私たちは愛の風(聖霊)に吹かれて、私たちがイエス様に愛されて命を与えられた事を知る必要があります。私たちはたまたまこの世に命を与えられたのではありません。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:4,11とあるとおりです。誰ひとり例外はありません。全ての人が、永遠の命と神の国の相続者として命を与えられたのです。

 

 素直に、自分の心の中を見つめてみましょう。古い自分を脱ぎ捨てて、新しく生まれることを可能にして下さるイエス様を信じましょう。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6:

 

・・・己の自己中心を悔い改めます。安息日の上に神様の祝福をお祈りしています。・・・SDA木更津教会 大平耕司

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2017211(土)・・・「死の疫病の特効薬!」

冬空の下、春の足音が聞こえるこの頃です。私の故郷の鹿児島は雪が積もっているのに、ここ木更津はお日様が照っています。それぞれの風景です。梅の花があちこちで見かけられます。日本の四季は財産ですね。同様に希望の光がそこまで来ています。私たちは希望によって生かされています。神様に感謝したいと思います。

 

さて、今日私に与えられました聖書のメッセージです。     

ヨハネ313~15『天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』

  当時、ユダヤ人社会の中で政治の中枢は、サンヒドリンという国民議会でした。そのメンバーとしてのニコデモは厳格で熱心なパリサイ人でした。彼は恵まれた家庭環境に育ち、高い教育を受け、才能も豊かでした。それゆえ、彼は神への忠実な信仰に対して、神殿への大きな献金と奉仕によって世間からも議会の中でも名誉ある議員として尊敬されていました。自らをも己の善行を誇っていました。そんな彼は、イエス様の教えと熱心な信仰心、そして、貧しい民への憐れみ、奇跡的な病の癒しなどを見聞きしていました。

 

 このニコデモとの会見のちょっと前に、イエス様は、神聖なる神殿の境内で、欲徳が絡んだ商売をしている様に対して、神の権威を行使されて、かつてない厳しさをもって、店を打ちこわし、商売人を境内から追い出されました(ヨハネ2:15)。うすうす信仰に対して堕落を感じていた真面目な議員や民の中には、イエス様のそのような行為の中に真理の光があるのを感じた者も多くいました。しかし、神殿の商売からわいろや儲けを得ていた多くの祭司や役人たちは、自分たちの権威や名誉が汚された上に、民の多くから自分たちよりも信任を得つつあった、ナザレから来た名もない田舎者のイエス様の事を恨み、殺そうとまでたくらんでいました。

その彼らに対して、ニコデモはイエス様の事を預言者かもしれないと、慎重な態度を取るように議会で勧告しました。彼はイエス様にどんどん引かれていき、直接会って話を聞きたいと思うようになりました。それで、議員という立場上、人目を避け、夕方薄暗くなってからイエス様の所へ出かけて行きました。冒頭の言葉はそのやり取りの途中でイエス様が語られたものです。

 

ニコデモはイエス様との会話の中で、自分の誇りを恥ずかしく思えてきました。外見上の事ではない、霊的であり、誠実かつ愛の香りを放たれるイエス様の中に、この世を遥かに超えた永遠の世界への招きを感じはじめました。イエス様が説かれている世界に気づき始めたのです。彼には衝撃が走りました。

 

その昔、モーセが率いた神の民イスラエルは、邪悪な心のゆえに旅の途中で毒蛇の被害に遭い多くの死人が出ました。すぐさまモーセが神の指示に従い、青銅の蛇を造り竿(さお)の先に掲げました(民数記21:8)。信じてその蛇を見上げた者は、瀕死の状態から不思議と癒されていったのです。その意味はこうです。アダムとエバ以来、蛇に化けた悪魔に噛まれて(騙されて)、永遠の神の愛から引き離され、邪悪な世を生き、死という滅びの結末を余儀なくされた人類。それに対して、蛇のように罪に感染した我々の状態に自らの身を置き、人類の罪の身代わりとなられて、十字架上で永遠に滅んでいかれた、無垢なイエス・キリスト。その愛の恵みを信じて見上げる人は、瀕死な死の病から解放されて、永遠の死から永遠の命へと移されるのです。

イエス様はニコデモに続けてこのように言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)。愛の神は、罪を犯さなかった唯一の、最愛なるイエス・キリストを私たち罪の身代わりとしてお送りになられました。そのイエス様の真っ白な愛の衣で、私たちの邪悪で真っ黒になった身体と心の全てが覆われる時、罪という疫病はイエス様の肉体と共に永遠に葬り去られ、私たちは永遠に耐え得る身体と心を備えられ、甦られたイエス様と共に、美しく誠実で愛と希望に満ちた世界に甦ることができるのです。

現代の激変していく情報社会にあって、何が真実で、何が邪悪で嘘で偽りなのか、見分けが困難になってきた世界、いや己の中にも卑怯で愚かな罪が潜んでいて、私たちはどの情報を信じていいか分からなくなってきました。この混沌とした日々を悩みつつ、憤りつつ、恐怖と心配に苛まれながら必死にイエス様にしがみつく。その救い主が示された世界は、死も涙も、悲しみも嘆きも労苦もない世界です(黙示21:4)。疑うものがない、完全に全てを信じきれる世界、その圧倒的な美しさと真理の世界は、私たちの想像を遥かに超えた空間でしょう。そのすべてを支配しておられる愛の神のふところに包まれて、イエス様、そして愛する神の家族と共に愛の奉仕にて生活する日々は、どんなでしょう。

病気も事故も災害も、邪悪な下心も、陰口も、愚痴、不平、不満、恐怖、疑い、心配、嫉妬も悩みも、ましてや死なども皆無な世界。歯の治療の恐怖もありません。病院恐怖症も薬物依存症も、対人恐怖症も、太り過ぎを気にする事も、夫婦げんかや兄弟げんか、そして親子げんか、恨みや喧嘩の売り買いも、心から恋する人にふられたショックも、死別のショックも、心の傷も、金持ちも貧乏も泥棒も、もちろん無くなります(笑)。ただただ、心をゆるし合い、真実にそして誠実に愛し合える世界。それも永遠に続くのです。

 

私たちの疑いと虚飾に満ちた覆いを取り除き、真実の愛の心を呼び覚ましましょう。ニコデモが勇気を持ってイエス様に近づいて、あたたかで豊かな愛の心を取り戻した時、その人生は永遠に価値あるもの、滅びることのない誠実で美しいものに生まれ変わりました。私たちも彼と同じように、イエス様を信じる者として、永遠の命に招待されているのです。・・・己の邪悪で愚かな心を悔い改めます。・・安息日の上に神様の恵みをお祈りしています。・・・SDA木更津教会 大平耕司

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2017128(土)・・・「パイオニア!」

外は台風並みの強風が吹き荒れています。昨年の春、こちらに引越して来てそうそう、この強風に迎えられました。ここは風さえなかったら、とてもいいところなんですが・・。昨日は散歩途中に帽子を2回も飛ばされてあわてました。

さて、今日私に与えられました聖書のメッセージです。

使徒言行録93,4節『ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」』・・・イエス様が十字架におかかりになって、三日目に甦られ、40日にわたって弟子たちの間に現れました。そして、再臨の約束をなさり天に帰られました。その後、クリスチャン達は厳格なユダヤ人から大迫害を受ける運命となってしまいました。サウロ(のちのパウロ)は、熱心なユダヤ人で、クリスチャンを捕えて殺す働きを手伝っていました。旅の途中で、冒頭の聖句のようにイエス様が直接パウロに話しかけられました。同時に、彼は目が見えなくなってしまいます。そして、パウロは変えられて、迫害者からイエス様の熱心な弟子へと劇的な転身をやってのけたのでした。パウロは異邦人伝道のパイオニア的存在となったのです。神の不思議な介入なしではやり遂げられなかった福音です。誰も、パウロを回心させることなんて考えた事はなかったと思います。多くの人がもう駄目だとあきらめていた時に、神様の御手が働きました。・・・ここ数年、これと同じような現象が起こっています。キリスト教に改宗した中東の元イスラム教徒が、ある人の夢を見てそうせざるを得なかったと話すことがよく聞かれるようになったと言います。彼らは、その人がイエス・キリストだと信じています。そして最近、ある宣教師の話によりますと、キリスト教徒を虐殺している過激派組織「イスラム国」(IS)の戦闘員の一人が、驚くべきメッセージを伝えに来ました。「白い服の男」の夢を見て、ISの犠牲者たちが信じていた宗教、すなわちキリスト教に改宗したと言います。彼は、白い服を着た男が来て「あなたは私の民を殺している」という夢を見始めたと語りました。そして、自分がやっている事に対して気分が悪くなり、不安を感じるようになりました。ある時、殺そうとしているクリスチャンが彼に言いました。「あなたが私を殺すのは分かっています。でも、私はあなたに聖書を差し上げます。読んで下さい」。その後、彼はその聖書を取り読み始めました。また、他の夢では、イエス様が彼にご自分に従うよう勧め、訓練を受けないかと尋ねたというのです。・・ここ数年来イスラム国のテロが始まって、世界が恐怖の中に落ち込んでいます。もはや、どうしようもないとあきらめるしかない状況の中で、このような不思議な出来事が次々と起こり始めています。多くの人の夢にイエス様が現われているというのです。表には出ないけれど、イスラム教を信じている人の中で、救い主がイエス・キリストであると信じて、こっそりと礼拝をしている人たちが増えているというのです。イスラム教もユダヤ教も、旧約聖書を聖典としているので、救い主を求める点では同じなのです。・・・人間の思惑を超えた遥かに高い神様の恵みが増し加わろうとしています。私たちは神様の事はすぐ忘れて、己の欲望充足の為に、ちっぽけなずる賢い策略や思惑などを前に置いて歩もうとする、計算高い存在です。しかし、神様は全てをご存知です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)とあるように、イエス様に委ねつつ、愛の奉仕と宣教の道をたった1人でもひたすら歩み出すパイオニアになりたいものです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)と言われたイエス様は、何も持たれなくても全てを支配しておられました。神様に己のすべてを委ねきった時に、イエス様は私たちの必要を完全に満たして下さいます。それも、私たちの想像を遥かに超えた、あまりある祝福が降り注がれるでしょう。あなたの人生において、たった1人でもいい、愛と永遠の命を見いだす魂に触れる光栄を祈り求めましょう。・・己の愚かさを悔い改めます。・・安息日の上に神様の恵みをお祈りしています。・・・SDA木更津教会 大平耕司

                                                                                       

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