昨日、教会の朝のお祈り?が終わり帰ろうとしたとき、そう、この前のブログの気持ちを抱えていたとき
宣教師から話しかけられた
この教団はまだ、宣教師がいるのだ
多くのキリスト教の教団では日本に宣教師がいなくなったのに
その宣教師がこう言った
今日の午後、バーベキューのパーティーがあるから参加しませんか?
と
ちょっと悩んだ
その日は天候が安定せず、いきなり、雨降るような状態
また、俺の身体的な問題
それとこの教団の信者にあまり知り合い、仲のよい人がいない
もちろん、みな親切で優しいけどフレンドとはいいにくい
この辺りが障害者としての弱さかもしれない
明るく元気よく何かに加わっていけない
話はわかりましたと帰った
話はずれるが、八月最後の日曜日ということであちこちでバーゲン
あぁ、まだ暑いし夏服買おうかな
そう思って、結構な距離を歩いて服を買った
一ヶ所で半袖のパーカー、いわゆるアンサンブルというTシャツとのセットとくまもんのを
もう一ヶ所じゃロングT
ちと買いすぎかな、来月から絞ろう
たぶん買わないだろうし
10月になったらもう少し寒さに対応した形になろうと
こんな風にあるいていたら、バーベキューにいってもいいかなと思った
バーベキューにいった
でも、なんか行かなきゃよかったと思った
知ってる人がいないからなんか入れない
ここまできたけど、帰ろうと思った
そして、やはり来るべきではなかった
と、考え悔やんだ
何しに来たんだ
健常のイベントに障害者は参加すべきではない
思いしった
ここは宗教のいべんとだからと期待したのは間違いなんだ
信仰の世界に差別はない、というが実際には違う
健常の支配する世界
今日の集会?の中で身体障害のある人の話をしていた
そんな人もいるんだ
すごいな、と思ったが
反面、その話題にでてくる人物は身体的に問題があっても
人が人らしいファクターの脳荷は、全く問題がない
逆におそらく頭がいいのだろう
そう思うと、なんか別の差別を感じた
いや、差別ではないけど
先週も感じた
その時は、ルックスのことをテーマにしていた
ある意味、コンプレックスを持つ必要はない
神はそんなことで差別しない
それは理解できる
神はすべてに平等だ、というのは
でも。なんか違う
健常の視点からの判断、理解が見える
それは健常の世界がオーソドックスでありノーマルだから
仕方のないこと
障害者としての俺は、障害者としての信仰を持ちたい気分になった
車イスに乗った神とか
目の見えない神とか
そう、全知全能じゃない神とか
そんな気分を抱えながらも教会を後にしようとした
たまたま、その姿を宣教師に見つかり話しかけられた
帰るのですか?
もう食べたのですか?
食べていない、なんかいづらくて帰ろうしていた
そんな話をした
そうしたら
ちょっと、お話をしましょう
と、彼はいった
正直、ウレシかった
バーベキューの会場で食べながら話をしようとしたが、ちょっと難しかった
それは片手を使えない俺に立食できない
テーブルの用意はあったが、そこは小さな子供たちのために用意されていた
そこに、空いた席があっても知らない人と同席するのはちょっと
教会のなかにはいり話をした
多くの話をしたと思う
しかも、漫然とまとまりのない話を
彼は外国人ということもあるから
俺のろれつの回らない、発音のはっきりとでてない話をよく聞いてくれたと思う
そういや、二週間前にこの教団のプログラム?で若い人たちのための集会というか信仰の話にさんかしたっけ
その時、質問があって聞いたんだけど遮られて?というか
後で答えるからと言われた
その時、なんか悲しくなった
これは俺の勝手な思い込みだが
イエスだったらこんなとき
彼の質問に答えましょう
当然、今関係のない話をするのかと別の人から言われるに違いない
だが、イエスなら答えるはずだ
質問をしたくて手をあげた人に答えるのに必要なのは、今答えることなのです、と
このプログラムにはイエスはいなかった
当たり前だ
そう、その時、いま何をしているのかという常識をできなかったジブンヲ恥じた
そして、自分の能力が劣化していることを自覚した
同じことをバーベキューのイベントでやってしまった、と
そんな話をした
いま思うと、俺の話を聞かせて悪かったと思う
ノープロブレム、と言ったけど
来週、行けるかな
なんか、恥ずかしくて行けないかもしれない
俺は死んでいたらよかったのに
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