我が野石谷町内にある能呂志神社。
古事記かなんかにもその名が記されている由緒正しき神社です。
そこで舞う神楽(奉納舞)を復活させるべく平成15年に発足したのが野石谷奉納舞保存会です。
毎年11月3日に例祭があり、今年から僕も加入し、いきなり日御碕という演目の主役「日御碕大明神」に抜擢させられてしまいました。
神楽未経験者の僕でしたが、町内のおっつぁんたちの御指導により、なんとか様になってきました。
日御碕大明神の武器
日御碕大明神女史の近影。
神楽の言い回しは古語であり、舞も話の筋には無関係なものがあり、狭い舞台は場面転換もなく、抽象的な舞や台詞に縛られているので解りにくいのですが、予めあらすじを知っておいてから観るとけっこう面白いんです。
解りにくい芸術・文化って確かにとっつきにくいですが、ある一線をこえると非常に自由な見方ができてくると思うんです。
場面転換やプロットをリアルに追求していくと、解りやすく大衆的なもの(例えばハリウッド映画)になっていきます。でも、観る側の想像力は刺激されにくくなり、みなが一様なイメージに縛られてしまうでしょう。
もちろんそれが悪いことではありません。難解なものが無条件に良いものであるともまったく思いません。ただ、観る側のイマジネーションを掻き立てるという一点に関して言うならば、一見不自由な芸術(神楽や演劇)の方が実は本当は一番自由だったりするわけで。
不自由な拘束があるから作り手は一生懸命魅せる工夫をし、観る側はその不自由さを補うために頭の中で想像力を膨らませていく・・・。(ちなみに僕が曲を作るときには、そこを一番意識しています。ニルバーナなんて一番いい例でしょう)
ぼく個人的意見としては、人それぞれで捉え方がまったく違ってくるかどうか・・・上手い下手やテクニックではなく、芸術性って突き詰めればその一言に尽きると思います。
でも僕は神楽はエンターテイメントの部類だと思っています。あらすじが解れば楽しめるし、大衆のものであるという点で。
ま、でも楽しければいいんじゃないかな。なんつって。

