はじめに


 ウンベルト・エーコ(Umberto Eco:1932年1月5日生-2016年2月19日没)の『薔薇の名前』(Il nome della rosa:原著1980年・邦訳(河島英昭訳)1990年)を初めて知ったのは、大学の「美学」講義で視聴した同名の映画(1986年(日本では1987年)公開:ジャン=ジャック・アノー監督)であった。既に20年以上も前のことで所々記憶は曖昧だが、中世ヨーロッパの修道院を舞台とした荘厳な映像や修道士たちの不気味な程に美しい讃美歌などが今でも印象に残っている。

 それからしばらくして、神田神保町の古書店で邦訳本を買い読み始めた。映画だけでは不明だった内容、特にキリスト教における異端審問や黙示録などに強く興味を惹かれ、『薔薇の名前』に関連した書籍(特に而立書房から出版された「バラの名前」解明シリーズ)も読むようになった。

 作品と出会ってから20年以上も経ちながら折に触れては読み返すうちに、『薔薇の名前』という書物を巡って様々に思い廻らしてきた考察や記憶の断片などを書き綴ろうと、ここにブログとして始めることを思い立った。






タイトルとその意味(1)「薔薇(バラ)」を選んだ理由(1)


 作品を読み返す度に、『薔薇の名前』というタイトルがどのような意図で付けられたのか興味を抱くようになった。エーコ本人は「タイトルとその意味」(ウンベルト・エコ著『「バラの名前」覚書』谷口勇訳:而立書房)という標題の下に次のように述べている。




 

『バラの名前』なるタイトルが私の念頭に浮かんだのはほとんど偶然だったし、これが私の気に入ったわけは、バラがあまりに濃密な比喩的意味に富む象徴であるために、ほとんどすべての意味を失っているからである――神秘なるバラ(ダンテ)、バラ戦争、バラ物語、バラの生を生きたローザ、あくまでもバラであるバラ(ガートルード・スタイン)、薔薇十字会員、すばらしいバラの優雅さ、芳しい新鮮なバラ、別名で呼ばれるバラ、……等々。【同書5頁】

 エーコがタイトルとして「バラ」を付した理由について「バラがあまりに濃密な比喩的意味に富む象徴であるために、ほとんどすべての意味を失っているからである」と述べた箇所は、作品全体に響く通奏低音(Basso continuo[バッソ・コンティヌオ][*1])のように感じる。実際、この作品には夥しい数の含蓄的絡み合い(implications[*2])があるために、一言で作品を言い表すこと(あるいは、一言という「囲い」(clôture)で一つの閉じた、完結的な、自己充足的な統一体として「書物」(livre)を「現前」(présenter(「現前性」présence))させること[*3])はほとんど不可能に近いといえる。


【註】

[*1] 通奏低音(Basso continuo[バッソ・コンティヌオ]

(参照:デジタル大辞泉)

 《〈イタリア〉basso continuo/〈ドイツ〉Generalbaßバロック音楽の演奏で、チェンバロなどの奏者が低音旋律と和音を示す数字に基づいて即興的に和音を補いながら伴奏部を弾くこと。また、その低音部。数字付き低音。バッソコンティヌオゲネラルバス

 常に底流としてある、考えや主張のたとえ。「平和への願いがこの本の通奏低音となっている」

[*2] 含蓄的絡み合い(implications)

(参照:ジャック・デリダ『ポジシオン 新装版』高橋允昭訳「訳注」176-177頁)

デリダの試みにおいてまずもって問題の渦中に投じられるのは「一つの見事な全体と目される《書物》という統一体であり、またそれとともに、そういう概念が必然的に相伴う含蓄的からみあいのすべて (toutes les implications d'un tel concept)」である。ここで「書物」と呼ばれているものは、言うまでもなく、書店や図書館にうずたかく積まれている書物の群を、あるいはその一冊を、ただ単に指しているのではない。誤解のおそれをも顧みず細かいことを抜きにして大ざっぱな言い方をすれば、世界を一つの閉じた、完結的な、自己充足的な統一体とみなすような思想、つまり世界を「一つの見事な全体と目される《書物》という統一体」とみなすような思想、そういう思想が「書物」と呼ばれているのである。ヘーゲル哲学にその典型が認められるそのような言うならば「書物」の思想が、デリダによれば、ギリシア以来「間近からあるいは遠くから」西洋の全体をかかりあいにしてきた。(中略)implications という語についてはさらに次のことを付言しておく。この語は「……のなかに折って畳みこむ」(plier dans…)という意味をもつラテン語のimplicare から来ており、フランス語では通常「巻添えにする」、「かかりあいにする」ことを意味し、そこから「(必然的に)…をもたらす」、「…を含意する」、さらには「そのようにして含意されているもの」を意味する。

[*3] 「囲い」(clôture)「書物」(livre)「現前性」(présence)

(参照:ジャック・デリダ『ポジシオン 新装版』高橋允昭訳「訳注」187-188頁)

デリダは『声と現象』(邦訳一九四ページ)にこう書いている。「現前性の形而上学の内部においては、対象の現前の知としての哲学、すなわち意識において知が自己のもとにあることとしての哲学の内部においては、歴史の囲い(clôture)としての絶対知が存在すると、私はまったく端的に信ずる。私は文字通りにそう信じる。そして、そういう囲いが生起したa eu lieu〔場所をもった〕)ことを信じる」。「現前性の形而上学」(la métaphysique de la présence)とデリダが呼んでいるのは、ハイデッガーがその構造を存在 - 神論(Onto-Theo-Logik)と性格づけたもの(『同一性と差異性』(大江訳・理想社)参照。なお、デリダはこの同じものを存在 - 神 - 目的論(onto-théo-téléologie)とも呼ぶ)、すなわちギリシャ以来のすべての形而上学のことであり、デリダはその近代的典型をヘーゲル哲学に認める。引用された個所に、「意識において知が自己のもとにあることとしての哲学」と書かれているが、ヘーゲル自身が彼の絶対者を Bei-sich-sein (自己のもとにあること)と規定していることは周知の通りである。さらに、ここで使われている présence(現前性)というフランス語は、ハイデッガーの用語 Anwesenheit のフランス訳であるが、デリダが「現前性の形而上学」と言うとき、Anwesenheit が形而上学の側から見られたときの局面に、彼はアクセントを置いていると見るべきであろう。先の引用文が言わんとしているのは、要するに、現前性の場は一つの囲われた場所なのだということであるが、もちろんこれは普通の意味に解されてはならない。それどころか、くだんの囲いは、つまりハイデッガー的に言えば存在論的差異は、形而上学の黎明期よりこのかた、つねに忘却されてきたのである。ハイデッガーやデリダの書くものが難解である最大の理由は、まさにこの点に起因すると言えるだろう。次に「制限を画定しつつある」と訳された se délimite という語は、dé + limite(r) から成っており、dé- という接頭語のもつ二つの意味(強調と反対)に従って、「制限を除去しつつある」とも解されうる。ヘーゲルはくだんの「囲い」の内部がすべてであると考えるのにひきかえて(もちろん、ヘーゲル自身はそういう物の言い方をしているわけではないし、 またするはずもないが)、ハイデッガーとデリダは形而上学の囲いを、その限界、制限を、画定する(つまり現前性の場として)わけだが、この挙措はまた、その囲われた場がすべてであるわけではないと考えることなのだから、その意味で制限の除去をも行なっていることになる。なお、同じくだりの「著者」(auteur)という語について言えば、このフランス語の原義が「作り出した人、ひき起こした人、創造者」であることを想起すればいちばんはっきりするように、「主観」という概念が問題の渦中に投じられるデリダ思想においては、「著者」という概念もまた脱構築されねばならないのである。