タイトルとその意味(2)「薔薇(バラ)」を選んだ理由(2)
前回、本のタイトルに「薔薇(バラ)」を選んだ理由として、エーコは「バラがあまりに濃密な比喩的意味に富む象徴であるために、ほとんどすべての意味を失っているからである」と述べたことを記した。
そのヒントになると思われる手がかりを、先に引用したテクスト(ウンベルト・エコ著『「バラの名前」覚書』谷口勇訳:而立書房)の中から探ってみることにする。
『バラの名前』を書いてから、私は読者の方々から多数の手紙を受け取った。巻末のラテン語の六脚韻詩句の意味は何か、またなぜこのタイトルがそれから暗示を受けたのかを知りたいというものだった。
私が答えたのは、この詩句が、十二世紀のベネディクト会修道士、モルレーのベルナールの『俗世蔑視について』から採られていること、この詩が「いずこにありや」(Ubi sunt) テーマの一つの異形である(ヴィヨンの「されど去年[こぞ]の雪は今いずこにかある」もやがてここから派生することになる)こと、ただし、ベルナールはありふれたトポス〔共通表現〕(往年の偉人たち、有名な都市の数々、美しい王女たち、すべてが露と消え去る)にさらに、消え失せるすべてのもののうちただ名辞だけは残存するとの考え方を付加していること、である。
アベラールが “nulla rosa est” 〔いかなるバラも(存在し)ない〕なる句を用いたのは、言葉が消え失せた物についても、存在せざるものについても語りうることを示すためだったことにも私は言及しておいた。これだけ述べた後で、私は読者に銘々の結論を抽き出すのを任せてあるのである。
およそ語り手という者は自分の作品の解釈を提供すべきではない。さもなくば、もろもろの解釈を生みだす機械たる小説を書いたりしてはいけなかったのだ。とはいえ、この気高い原理を実現するのに主たる障害の一つは、いずれの小説もタイトルをもたなければならないという事情にある。
不幸なことに、タイトルというものはそれ自体すでに解釈への一つの鍵である。『赤と黒』とか『戦争と平和』といったタイトルから出てくる示唆からは、誰も逃れることはできない。
上記から参考になると思われる箇所を示すと以下のようになる。
- ① 巻末のラテン語の六脚韻詩句が、十二世紀のベネディクト会修道士、モルレーのベルナールの『俗世蔑視について』から採られており、「いずこにありや」(Ubi sunt) テーマの一つの異形である(ヴィヨンの「されど去年[こぞ]の雪は今いずこにかある」もやがてここから派生することになる)。
- ② ただし、ベルナールはありふれたトポス〔共通表現〕(往年の偉人たち、有名な都市の数々、美しい王女たち、すべてが露と消え去る)にさらに、消え失せるすべてのもののうちただ名辞だけは存するとの考え方を付加している。
- ③ アベラールが “nulla rosa est” 〔いかなるバラも(存在し)ない〕なる句を用いたのは、言葉が消え失せた物についても、存在せざるものについても語りうることを示すためだった。
- ④ 以上(①~③)を示唆した後で、読者に銘々の結論を抽き出すのを任せてある。
- ⑤ およそ語り手という者は自分の作品の解釈を提供すべきではないが、この気高い原理を実現するのに主たる障害の一つは、いずれの小説もタイトルをもたなければならないという事情にある。
- ⑥ 不幸なことに、タイトルというものはそれ自体すでに解釈への一つの鍵である。『赤と黒』とか『戦争と平和』といったタイトルから出てくる示唆からは、誰も逃れることはできない。
①「巻末のラテン語の六脚韻詩句」とは以下のものである。
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.
これは十二世紀のベネディクト会修道士、モルレーのベルナールの『俗世蔑視について』から採られたと述べられている。
このようにして、読者は当然ながら、方向喪失させられたのであり、タイトルから一定の解釈をむことはできなかった。そして、結びのラテン語の詩句のありうべき唯名論的読みを捉えたとしても、その読者は、あらかじめ他のもろもろの選択にいくどとなく出会った後で、やっと最後の瞬間に初めてその読みに到達することであろう。タイトルというものは、読者の観念を混乱させるべきであって、それを秩序づけるべきではないのだ。
小説家にとって、彼本人が思いもしなかった読み方を読者から示唆されることほど喜ばしいことはない。私が理論的著作を書いていたときの、私の批評家たちに対する態度は裁判官のそれであった。彼らが私を理解したか否かを検証し、それから彼らに審判を下したのだった。
小説の場合には、状況は完全に異なる。作者はたとえ逸脱しているように見えるような読み方でも受け入れるべきだ、といっているのではない。そうではなくて、いかなる場合にも沈黙を守り、他人に対しては、テクストを手がかりに、読みに挑戦させておかねばならない、といっているのである。とはいえ、無際限な読み方は、作者が思いもしなかった意味効果をあぶりだすものである。作者が思いもしなかったとは、どういう意味なのか。
小説家にとって、彼本人が思いもしなかった読み方を読者から示唆されることほど喜ばしいことはない。私が理論的著作を書いていたときの、私の批評家たちに対する態度は裁判官のそれであった。彼らが私を理解したか否かを検証し、それから彼らに審判を下したのだった。
小説の場合には、状況は完全に異なる。作者はたとえ逸脱しているように見えるような読み方でも受け入れるべきだ、といっているのではない。そうではなくて、いかなる場合にも沈黙を守り、他人に対しては、テクストを手がかりに、読みに挑戦させておかねばならない、といっているのである。とはいえ、無際限な読み方は、作者が思いもしなかった意味効果をあぶりだすものである。作者が思いもしなかったとは、どういう意味なのか。
フランスの文献学者ミレイユ・カル・グリュベルは、(「ばかな人びと」の意味での) “simplices” と、薬用植物の意味での “simplices” とを結びつける、繊細な字遊び(パラグラム)を発見した。そして、それから、私が異端の有害植物、を話題にしていることを見いだしている。私としては、 “simplices” なる用語が〝有害植物〟なる表現と同じく、当時の文学においては両方の意味で繰り返し出ていると答えられるであろう。
他方、私はグレマスが、薬草採集者が「simplicesの友」と規定される場合に生じる二重の読み(記号論学者はこれを〝二重同位態〟と呼ぶ)について挙げている例のことを、熟知していたのである。私は字遊びに興じていることを知っていたのか否か。それをいま明かすことはまったく無用だ。テクストが現前し、それが独自の意味効果を生みだしているのだから。
他方、私はグレマスが、薬草採集者が「simplicesの友」と規定される場合に生じる二重の読み(記号論学者はこれを〝二重同位態〟と呼ぶ)について挙げている例のことを、熟知していたのである。私は字遊びに興じていることを知っていたのか否か。それをいま明かすことはまったく無用だ。テクストが現前し、それが独自の意味効果を生みだしているのだから。
小説に対する書評を読んでいて、私が格別の喜びを覚えたのは、ある批評家(ジネーヴラ・ボンピアーニとラルス・グスタフソンが最初だった)が、異端審問裁判の終わりのところでウィリアムの発している文言(イタリア語版三八八ページ)を引用しているのを発見したときである。「明鏡止水の状態の中で師匠をもっとも脅かすものは何ですか」とのアトソンの問いに、ウィリアムは、「性急[せくこと]さ」と答えているのだ。
私はこの個所がひどく気に入っていたし、今でもずっと気に入っている。ところがその後、ある読者が、次ページにおいてベルナール・ギーが拷問で食料貯蔵庫管理係の僧をおどしながら、「偽使徒どもが信じてきたのとは違って、正義は性急さで吹き込まれはしない。神の正義は数世紀を閲[けみ]しているんだ」といっていることを私に指摘してくれた。そして、その読者は当然のことながら、私にこう尋ねていた――ウィリアムが怖れている〝性急さ〟と、ベルナールが賛美している〝性急さの欠如〟との間に私がいかなる関係を打ちたてようと欲したのか、と。
この時点で、私はある厄介なことが生じたことを了解した。実は、アトソンとウィリアムとが会話するこの個所は、原稿にはなかったのであり、ゲラ刷りの校正をしているときに初めて付加したものだったのだ。リズムの調和(concinnitas)上、私はベルナールにさらに発言させる前に、別の間隔を挿入する必要があったのだ。そして、私はウィリアムに性急さを嫌わさせていた(しかも、大いなる確信をもって。だからこそ、私には彼のこの答えがたいそう気に入っていたのである)間に、当然のことながら、私は少し後のところでベルナール・ギーが性急さについて語っていることをすっかり失念していたのだ。
ウィリアムの言葉なしで、ベルナールのそれだけを読めば、それは一人の裁判官から予期できるような類[たぐい]の、たとえば、「法の前では万人は平等だ」といった陳腐な文言に過ぎなくなる。ところが、ウィリアムが触れている性急さを、ベルナールが触れているそれと対置すると、後者の言葉は当然ながら或る種の意味効果をかもしだすし、読者としては、両者が同じことをいっているのか、それとも逆にウィリアムが表明した性急さへの嫌悪はベルナールが表明したそれとはやや異なるものなのかと自問するのももっともなのだ。
テクストは存在しているし、それ独自の意味効果をかもしだす。私が意図したか否かに関係なく、テクストは今や或る質問、或る曖昧な挑戦に直面するのだ。そして、私自身はこの対立をどう解釈すべきかよく分からないのである――或る意味(おそらくは多くの意味)が潜んでいることを理解しているとはいえ。
この時点で、私はある厄介なことが生じたことを了解した。実は、アトソンとウィリアムとが会話するこの個所は、原稿にはなかったのであり、ゲラ刷りの校正をしているときに初めて付加したものだったのだ。リズムの調和(concinnitas)上、私はベルナールにさらに発言させる前に、別の間隔を挿入する必要があったのだ。そして、私はウィリアムに性急さを嫌わさせていた(しかも、大いなる確信をもって。だからこそ、私には彼のこの答えがたいそう気に入っていたのである)間に、当然のことながら、私は少し後のところでベルナール・ギーが性急さについて語っていることをすっかり失念していたのだ。
ウィリアムの言葉なしで、ベルナールのそれだけを読めば、それは一人の裁判官から予期できるような類[たぐい]の、たとえば、「法の前では万人は平等だ」といった陳腐な文言に過ぎなくなる。ところが、ウィリアムが触れている性急さを、ベルナールが触れているそれと対置すると、後者の言葉は当然ながら或る種の意味効果をかもしだすし、読者としては、両者が同じことをいっているのか、それとも逆にウィリアムが表明した性急さへの嫌悪はベルナールが表明したそれとはやや異なるものなのかと自問するのももっともなのだ。
テクストは存在しているし、それ独自の意味効果をかもしだす。私が意図したか否かに関係なく、テクストは今や或る質問、或る曖昧な挑戦に直面するのだ。そして、私自身はこの対立をどう解釈すべきかよく分からないのである――或る意味(おそらくは多くの意味)が潜んでいることを理解しているとはいえ。
作者はその作品を書き終えるや、死すべきなのであろう。テクスト自体の歩みを妨げないためにも。


