古典戯曲を読み返して、ドラマ作品に潜む人間の「情念」を探ろう。

そんな企画を始めてみたいと思います。

 

まずは西洋のギリシャ悲劇から始めて、近代劇、現代劇。

そして日本の劇についても触れていけたらな……と思っています。

 

初回の今日取り上げるのは、ギリシャ悲劇。アイスキュロスの作品から。

 

「縛られたプロメーテウス」です。  (ギリシャ悲劇全集・Ⅰ巻より)

 

 

 

■おおまかなあらすじ……

プロメーテウスが人間に火を与えたことによって、ゼウスから罰を受けて、引っ立てられるところから始まります。

そこで様々な神々が現れ、悔い改めるようにプロメーテウスを説得しようとしますが、プロメーテウスには罪の意識よりは皆目なく、耳を貸そうとはしません。

むしろ開き直って罰を甘んじて受けていると言ってもいいでしょう。

その結果、プロメーテウスは奈落の底に落とされるのでした……。

 

という感じでしょうか。

 

 

■本来は三部作の一部というこの作品。

 

本作を含め、

「解放されるプロメーテウス」

「火を運ぶプロメーテウス」

 

があったのではないかと言われています。

 

 

■さて、本作の特徴を振り返ってみますと、

 

台詞はとても仰々しく。

対話しているようなシーンでも独白に近いものを感じます。

 

舞台で人物がぶつかり合う問いよりも、

見ている人(観客)に語りかけるような言葉の数々という印象です。

 

かなり説明的なセリフもある中で、やや状況が理解できなかったところもありしました。

(私の読解力不足もありますが……)

 

決してわかりやすいお芝居ではない。というのが率直な感想です。

 

 

■さて、どのような「情念」が感じられるか、考えてみると……?

 

罰を受けながらも自分の行いの正当性を信じて疑わない、というプロメーテウスのキャラクターに本作の情念はあるのではないでしょうか。

 

他の神々からの様々な角度からの言葉に対しても、

 

迷わずに己を貫く。

 

この点が本作の中心にあるように私には思えました。

 

「自分の信念を貫く主人公の一貫した行動」という意味では、「オイディプス王」(ソフォクレス・作)のオイディプスとの類似性も考えられるかもしれません。

 

(ただし、オイディプス王の場合は、自分の行い(真実)を知って、絶望の淵に立たされるわけですが……)

 

 

とにかく、物語を引っ張る、強力な貫通行動(決してぶれない行動)を持った主人公像というのは昔々の戯曲からあったパターンなのだと再認識した次第です。

 

 

また、この「ぶれない自己を持った主人公」に観客が「共感」できるかどうかも重要なポイントです。

 

本作の場合、プロメーテウスはゼウス(神の世界)にとっては罪人ですが、人間にとっては火を与えてくれた恩人であることからわかるように、

観客(人間)はプロメーテウスの行動に同情し、感情移入することができるのではないかと推察されます。

 

 

■今日の戯曲からの作劇法則。

・強力な意思を持ったぶれない主人公は非常に魅力的である。

・また主人公に共感できるポイントは主人公の主体的な行動に絡めて持たせるとよい。