批評は誰にでもできるか | 文系SEの雑記帳

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ひひょう[―ひやう] 0 【批評】


(名) スル
事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。



ひ‐はん【批判】


[名]スル

物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」

人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」

哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。


(引用:Yahoo!辞書

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批評や批判というのは


もともとは、良いか悪いかを判断することで、


非難することではない。



批評眼という言葉をご存知か。


これは本来、誰にでも備わっているものではない。


批評を論じる人を評論家というが、彼らは


「技術的に有用な多くの知見を持つことになった者がそれを社会へ提供・還元するもの」

(引用:『評論家』「Wikipedia」


なのである。


彼らは


「特定の分野について多くの知識を持ち、その知識・経験を踏まえて」


物事の善し悪しを判別する。



よく、こういう言葉を耳にする。


「感想は誰しも持ちうるものであり


 それを意見として自由に発言することは良いことだ。」と。


果たして本当にそうだろうか。


ほとんどその道について見識のない人間の発言が


そもそも「意見を述べた」というレベルなのだろうか。



もちろん大衆にとって、良い物は良いし、悪いものは悪いものだ。


しかしそれを判断するには


それ相応の知識や経験が必要になってくる。


自分の経験不足を認識せずに


勝手な感想を意見と勘違いしてしまうことが


果たして良しとされるべきか否か。



この記事で自分が言いたかったのは、


自分の知識不足や経験不足を軽んじて


適切な判断を下せずにいることに


無関心でいてはいけないこと、


そのことにいつも敏感であってほしいということである。


つまらないものならば、なぜつまらないのか


いいものならば、なぜいいのか


それを的確に言葉にできる事は


自分の感性を磨くことにつながる。







追記として、

言論の自由とか、そういうことを


履き違える人々が多数派にならないことを


切に望むものである。