この禍の中、

呑気と思われるかもしれないが、

 

こんな時だから浮き出てくるものあるようで、

また

この禍後の世の中の変化ってのは間違いなくあるような気もしていて。

それは、多分なのだけれど、

 

もう、元の生活や在り方は出来ないような、

元には戻れずに、前に歩いていくしかないような

そんな時代になるのかもしれない。

 

俺自身の禍の前の人生をみると

まあ、俺個人の性質的な問題もあってか、

明日からどうしよう、っというのが何度もあった気がする。

 

そんな中で、俺以外の周囲の人間達は、どうも安定して毎日のルーティンワークをこなせば、OKのようだが、なんだかがんばっても俺は違う。

 

いきなり、明日からお先真っ暗という状況、かといって投げ捨てるわけにはいかない物は背負っている。

 

さて、どうしたんもんか…ってなことは多くあった。

 

だから、こういう状況は、

まあ、表層では「さて、どうしたんもんか」があるが、

深い所では「今度はこの状況。俺独りではなく、全体で起きてしまったか。まあ、ゆっくりこれからを考えるか…」

それしかない。

 

そんな中で、俺は

他者の恋愛を眺める機会が日常で多くなった。

既に相手と相思相愛の関係の人、

片思い、

漠然と好きな人が欲しい人、

 

ま、さまざまだ。

 

この今は俺自身、恋愛の当事者には慣れていない。

ま、そんなもんさ。

 

失礼かもしれないが、観察者だ。

 

そんな中で感じ取っていることは、

 

とはいうものの、本当にそれが答えたるかは、まだまだだ。

第一、愛とか恋というのは形態も状況も紋切り型のようにはいかない、

恋を知るは、人の心を知ると同等な部分もあるし

そうなると、それだけ事態は複雑だってことに尽きると思う。

 

そんなわけで、考察の材料を一つ見つけた。その程度と思ってくれ。

 

もしかして、これからの時代、この禍の中の生き方で、

恋愛に於いて、相手に求めるものが変わるのではないか?

そのように思った。

 

単純な部分で言えば、物や仕事とかを第一基準にすることは、

ナンセンスに感じ始めるのではないか?

 

と感じた。

 

それはつまりをいうと、

どんな状況になっても、愛に基づいた行動を自分にしてくれるか?

 

という価値基準が強くなるのかな?そのように思った。

すでに、もうあるのかもしれないが、

全体としては少ない判断基準かもしれない。

 

禍の前は、何せ

正常に動いているらしい世のシステムの上に成り立っている価値基準が強くて、

それにどれだけ叶った人物かどうか?昔でいうことの3高とかね。

高血圧、高コレステロール、高血糖

じゃないよ。

高身長、高学歴、高収入

ま、今となってはかなり古い言葉かもしれないけれど、

その名残はあったように思う。それを求める事は悪いとは思わない。

生きるのに必死。そこに尽きるのだから。

 

で、この禍だ。

得体の知れない病魔があり、

半ば機能不全を起こしている政府、でもこれは実はかなり前からそうだった。

生活の崩壊危機

逃げられる場所はほとんどない

否応なしにこの四面楚歌な状況に向き合わされる。

 

自分達の信じたものは一体、何だったのか?

そんな中で、今までの過信は崩れ、やがては本質的なものへの確信に多くの人がたどり着くと

思うのだが、

 

すると、持っている物ではなく

本質的な核の部分を成す、心というか、心意気というか

そんなものに恋していく時代になるのだろうか?

ふと、そう思った。

 

持っている物というは、それを使う心を伴ってこそ輝くものなのだろうし。

 

俺の予想としては、あくまでも俺のちっぽけな頭の中の予想としてね。予言ではないよ。

しばらくすると、

目に見えるものに恋することは終わり、

思考に恋する時期が来るとかな?

そして次第に、

言葉に恋する時期、

精神に恋する時期、

言葉から精神へ転換するのは、比較的短期間かな?

精神と心の違いを定義しろと言われると困るが、

この時期の完成形としては、心への恋に行き着くのかな?

 

その次のステージとなると

創造性への恋というのがキーワードな気がするのだけれど、これを具体的に細かく説明しろといわれると、概ねのキーワードが頭の中にあるだけで、まだ具体的な形が俺には見えてこない。多分この創造性への恋は、また更に30年後くらいかな?

 

思考への恋の時代は、この禍を受けて見えてきた普遍的な自然原理に基づいた思考に近い、とかそういう事が恋の判断になるのかな?

というのは、本当意味で生きる知恵だからね。生き残る知恵ともいえるかな?

やはり、それってお互いに頼もしいわけじゃない?「物ではない、考えるのだ」っていう少しまだ物質世界的な要素を若干に残したものかな。

 

言葉への恋の時代は、どんな心地よい言葉を相手に投げかけるか?が要になるのかな?

つまりは、形の無い心に爆発的な喜びを投げかける言葉を使うかどうか?という感じかな。ま、例えればね。

 

やはり、言葉というのは精神とか心とかそういう部分から発するもの、勿論場合によっては知識とか思考的な要素も絡むのだろうけれど、だから言葉への恋の時代はすぐに精神への恋に転換すると思う。下手すると「次の瞬間」のような早さかもしれない。

いくら物質的な肉体に精神は内包されているといっても、言動にその端々は表現されてしまうものだし、ま、簡単に言うと、「こいつといると話さなくてもなんかいい」っていう感覚かな?

これらの感覚は勿論この今でも判断の要素には成りうるが、どれだけクローズアップされているかとなると、ちょっとまだ怪しいかな。婚活の戦略ってのは世の様相を色濃く表している一面ってやはりあると思うから、ここはまだ到達していないポイントかもしれない。

大多数のニーズあっての婚活戦略ってのは、これは致し方ない現実で、多くの他者と共に変化するってのが世の常だしね。

 

精神と心の違いを定義しろ、と言われると俺にはこの明確な違いはまだ分からないが、精神ってのは心と比べると比較的表側かな?心はもっと奥かな?

そこを見るようになるんじゃないかな?

なんか、今の段階でもそうなのだけれど、恋愛って「見えない何ものかの奥にある中身」を求める傾向があるような気がする。きっとそれは現代人の自然的傾向なのかもしれないね。

見えていると思っているものの更に奥を、ってな感じかな。

 

そうなると、例えば今は目に見えるものへの恋の段階だったとして、精神とか心ってのは目に見えるものほどはっきりとしてないじゃないか?っていう考え方もあるかもしれないが、

 

俺自身、目に見えているものは、一見感覚しやすいんだけれど、色んな意味で不確定性要素というか、正しく判断できるものってないような気がする。そもそも「絶対的正しさ」というものがあるのかどうか?という部分にまで話が行っちゃうのだけれどね。

 

ま、そんな感じかな。

あくまでも、俺の個人的な考えだし、考えの材料の一部というか、そんな程度のことなのだけれどね。

 

この禍の後の世界を

経済や社会そのものの形や、人の有り様など、様々な部分で予想を立てようとしている人達はいるようだ。

んで、俺は不思議なもので、禍の後の恋愛について考えている。

 

ま、また思いついたら考察の上、載せておくよ。

なんか支離滅裂な内容だね