こんにちは。
母の葬儀が滞りなく終了しました。喪失感と、もう母がつらい気持ちになってがんばらなくてもいいんだという安堵感と……、言葉にしがたい感情を抱えながら、父と過ごしています。備忘録がてら母の最期の日から葬儀までの間のことについて、何回かにわけて詳しく書きたいと思います。
母の最期
1月3日くらいから、血圧が急上昇し、発熱もあったりと予断を許さない状態になっていました。様子見をしつつ、現状維持が続くこともままあるとのことだったので、用事を済ませるために自分の家に帰宅していたのですが……。
数日たった1月6日早朝。父からの着信がありました。
「母の血圧が急激に下がったから来てほしい」
6時ごろの着信だったのですが、飛び起きて15分で支度。夫が新幹線が通っている大きな駅まで送ってくれるというので、お言葉に甘えて急いで移動。長時間の移動を済ませ、11頃から母のもとへ。叔母夫婦(母の実の妹とその旦那さん)が駅で待っていてくれたので、一緒に向かいました。病室へ着くと、母の様子を静かに見つめている父が。
よこたわる母のそばへ行くと、母は口で短く早く息をしていました。その時点で血圧は変わっていませんでした。数時間おきに諮ってくれているようです。
以前までは、お見舞いにいくとかすかに開かれた目がぐるぐると動いていたのですが、6日はきっちりと目が閉じられていました。たまにかすかに開くけれど、反応はありません。意識がないながらも、時々呼びかけながら母を見守ります。
心拍数、呼吸数などが波状で見れる機械……心電図?(名前を度忘れしてしまいました…わかりづらくてすみません)と母を交互に見続けること数時間。数時間おきに血圧を測りに来てくださる看護師さんも、少しずつゆるやかに血圧が下がってゆくのを見て「もうそろそろかもしれません」と深刻そうな顔をされていました。
12時、14時と血圧をはかるたびに数値がどんどん下がっていき、呼吸もゆっくりになっていきます。
時折病室にいる人たちでたわいもない話をしたり、母に話しかけるなどしながらも、次第に悪くなっていく母の容態に、病室内には重苦しい空気が流れていました。でも、そうばかりしていられないので、あえて母の思い出話を語るなどして過ごしていたとき。
ふと思い出したことがあり、母に関する笑い話をしたんです。叔母夫婦と父、わたしとでその話をしながら笑っていると、心電図が急激に動いたんです。波状が激しく動き、まるで「なんでその話をするの!」と母がたしなめているような気になり、一度みんなで泣いたりしつつ…。16時ごろまで穏やかに過ごしていました。
16時に、看護師さんが一度おむつを取り替えますと言うのでいったん病室を出て、待合室でしばらく待つ。なかなか戻っていいですと言われないので悶々としていると……。15分ほどたってようやく出てきた看護師さんが「あの……」とひとこと。
「痰の吸引をしてから呼吸が落ちています」とのこと。呼吸の数値をみると、10程度。ときどき7、8など、もうほとんど息をしていないのでは?と思うほど下がっている。比例するように、心拍数もゆっくり、ゆっくりと下がっていきました。山なりの波状になっているのが健康体の方の心電図だとしたら、そのときの母の心電図はもうほとんどまっすぐに近い状態になっていました。
ああ、と思いました。ゆっくりと、しずかに最後のときを迎えようとしている。涙があふれてきました。けれど、苦しくなさそうでよかったという安堵もありました。そうして見守って10分ほどたち、母の呼吸と心臓が静かに止まりました。
もっと取り乱すかもしれない、と思っていたので、穏やかに最後を看取れたことは驚きでしたが、母が最期に安心させてくれようとしたのだと思っています。待機してくれていた医師がすぐに駆け付け、死亡の判断をしてくださいました。
その後、ケアをするので、ということて病室を出た我々は、すぐに親族各位への連絡や葬儀関係の手配をするために奔走。
もどってくると、看護師さんの手によってきれいに化粧をされた母が眠っていました。
まるで元気だった時のような穏やかな姿に涙がまたあふれてきて……すすり泣いていると、ケアしてくださった複数人の看護師さんがおずおずと「じつは〇〇主任さん(母の名前です)には大変お世話になったことがあって……」と。以前母がはたらいていた病院で後輩として働いていたそうです。そういう縁があったんだなあとしみじみしつつ。「たくさんお世話になった方がいて、お別れをしたいと思うので、日程が決まったら教えてほしい」だとか、「母を気にしていた方が複数人いるので連絡を入れてもいいか?」など言っていただいたのでぜひ、と返事をしました。
せまくて小さな町なので、入院をしたことは広まっていたようです。けれど、父も母も病気のことをほとんど誰にもいわずここまで頑張ってきていたので、ほかの方々も聞くに聞けなかったよう。母が最近まで携わっていた仕事関係の方には唯一話していたこともあり、かつて働いていた病院の関係者各位とも顔見知りの、母を支えてくださった方がいたのでその方に橋渡しになってもらうことにし、いったん病院をあとに。
葬儀社の方が母を迎えに来てくださったので、お礼を言ってから車に同乗。この日は、葬儀社の方がほかの方でいっぱいとのことだったので、翌日以降葬儀社のホールに寝かせてもらうことにし、ひとまずその日は自宅に送ってもらうことになっていました。父は自分の車で来ていたので、わたしが母の車に同乗し、一緒に自宅へ向かいました。
叔母夫婦はわたしたちよりも先に自宅に戻り、部屋を整えてくれています。
ここまで来ると頭がやけに冷静になっていて、今後のことをぐるぐると考えたり、各所への連絡や諸々のことを考え始めていました。やけにさえわたっていたな、と振り返りながら思いました。
まとまりはないのですが、母の最期の日はこのような感じでした。
ほんとうに穏やかに、痛みや苦しみは最小限で最後を迎えられたことはよかったなあ。としみじみと感じています。
病気は早く、確実に母をむしばんでいきました。けれど、頭痛だとか、目に見えていたい、つらい、といった症状が特に現れなかったことは不幸中の幸いだったのかもしれません。それでも、物忘れや意識障害、脳のむくみ、マヒなど、苦しまされたことはたくさんありましたが……。
それでも奮闘し、頑張りぬいた母は57歳の生涯を閉じました。ほんとうに頑張り屋さんで強い自慢の母です。
長くなってしまったので、7日以降のことはいずれまた。
今は、少しずつ家の整理をしたり、父と思い出話をしながらすごしています。
もう少し実家にいるつもりなので、父の様子を見ながら静かに過ごそうと思います。
ではまた。