1990年頃 | スクラップマスターのブログ

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最近1980年のバブルのコマーシャルが流行っています。


そのバブルの終焉にリサイクルの業界に入りました。



後輩にそそのかされて豊橋駅前の立派なビルで面接。



その後、豊川の営業所に配属。


いやー驚いた。


それまで気にもしていなかった「鉄くず」が

取扱商品。


それも扱い量が月に1万数千トン。


最初は「トン」と言う呼び方もよく解らなかった。


そして「鉄くず」にも色々な種類があることも

全く知らなかった。


入った頃はまだバブルの余波があった。


価格はそんなに高くなかったが「量」はあった。



そこにバブルの崩壊。


メーカーが大減産の為、購入を大幅に制限。



実際経済と鉄屑の出方には時差がある。

なので鉄くずはドンドン出るが、メーカーは買わない。


港には在庫の山だらけ。


大型が通る道しか残されていない。


それで「荷止め」となる。


陸送のメーカーも荷止め。


船便も荷止め。



名古屋の鉄屑屋の中には、降ろし場が無くなって

それこそ店を閉めた所もあった。


それまでは「営業だからとにかく買って来い」と言われていたが、


「営業に行くな、行けば買わされるから」と。


価格も言いなりだった。


新断の小型プレス(一番高価)ですら、

港到着で@5円/kgくらいまで落ちた。


この時は驚いたね。



それまでの日本は「鉄屑輸入国」だった。


よく「米国屑」「ベトナム屑」が入ってきていた。



笑い話では済まないが、ベトナム屑の船の蓋を

開けたら「ミサイル」がドンと一番上にあった。


だから「蓋」を閉めて「開かなかったことにして」返品した。


また実際に釜に入れて溶かしていたら、機関銃の玉が

「ババババ・・」と破裂して、釜に穴が開いてしまい

溶けた鉄が流れ出したこともあった。


ベトナム戦争の鉄屑が実際に日本に大量に来ていた。



でも実際は「鉄屑」は国際商品だったのだが、日本は

輸入はしてても「輸出」はしていなかった。



そこで皆慌てて「輸出」に舵を切った。


結局日本は、すでに「国内発生屑」が大量にでてる国に

なっていたのだが、皆気にしなかったのだ。


それから、とにかく輸出しなければ、鉄屑が捌けない。


今まで輸出したこともなかった会社や、鉄くずなど扱って

いなかった「港」も続々やり始めた。



それでもしばらくは鉄の価格はダメだった。


「逆有償」という言葉が出てきたころだ。



産業廃棄物の業者は「処理費」と「引き取り運賃」を取る。


だけど「鉄屑屋」は引き取り運賃は無し、ヒアブと呼ばれる

クレーン車もサービスで行う。


相手の工場が「箱が必要」と言えば、競争で作って

タダで提供する。1個何万円もするのに提供する。


産廃屋は1か月引き取りがなければ、追加料金が発生する。


それに産廃屋の箱には「鉄くず」も結構入っていた。


結局鉄屑屋は、最低でもタダでないと「お客を無くす」と。


引き取り運賃を請求した時点で、「他に頼むからもういいよ」。



一般・産業廃棄物をやっている会社は判っているが、

鉄くずの為に「中間処理」を取ったところは結局お金を取れない。



よく「廃棄物会社」の社長から聞かれる。


「なぜ鉄くず屋は安い鉄を引き取るのに費用を取らないの?」と。



「その通り」と言いますが、それやると「お客が無くなる」と

思い込んでいるし、「私どもは買い取ります」と言ってくる

ライバル会社が必ず存在する。


完全に需要と供給。


少し気を抜くとお客のところに他社の箱が置いてある。



では何故価格競争してまで頑張るか?


大体金属屑は「計量器」が無いと計れない。


そうとう大きな工場でないと「計量器」は無い。


それも「車ごと計れる大きさの物」は。



だから重さは自己申告である。


つまりお客が増えれば「自己申告分」が増えるのだ。


それ以上は言わなくても判ると思います。



それで利益を出さなければ、一体どこで出すのだ?



まあそんな感じが1993年ころまでありました。




次回は雑品がどのように海外に行くようになったかを

書いて行きます。



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スクラップマスター 南 でした。



ではでは・・