山口敏太郎さんのアトラスラジオを聴いていたら、久しぶりに小泉太志命の話が出てきたので、遂に彼について書く日が来たと思い紹介いたします。

 

 

昭和天皇はGHQに強要されていたキリスト教への改宗を拒んだが、その裏にいたのが三上照夫。

ラジオに出てくる二人のうちのもう一人の、天皇の国師と呼ばれた三上照夫はまた後日(いつだよw)紹介したいと思います。

三上照夫に関してはこちらの本になります。

 

 

 

今日はこちらの書から。

実は2冊とも同じ著者、宮崎貞行氏。

意外と深かったこの一冊。

何度読んでも新しい発見があります。

古神道・古史古伝や武術が好きな人は、是非一度読んでみることを強くオススメいたします。

あなたなりの大発見ができる一冊です。

 

 

「その1」とつけたのは、いつまで続くか分からないから(笑)

最初は前編・後編でしようと思ったのですが、一字一句が深すぎて、小分けして紹介してゆこうと思います。

 

読んでいて思ったのは、小泉太志命自身がそう思っていたというより、宮崎氏の解釈が小泉の目線のように書かれているということです。

その点は注意なさって読んでみてください。

 

 

まずどんな人だったかを簡単に紹介。

武術家でもあり、古神道家でもあり、霊能力者でもあり、あらゆる古史古伝にも精通した聡明で高潔でマルチな才能をもった人物でした。

 

明治40年に青森県八戸市に生まれ、茨城県の鹿島神宮に伝わる鹿島神流の「祓い太刀」を習得。

昭和12年に西園寺公望からの依頼を立命館大学総長中川小十郎が取次ぎ、太志命は昭和天皇に降りかかる呪詛や怨念を生涯剣祓いし続けることを受けることとなる。

戦中も一心に霊剣を振るい続けた小泉は、皇居爆撃のために東京上空に現れたB29を消し去った。

戦後は三重の伊雑宮の前にある道場で、1日三万三千回真剣を振り続けた。

昭和天皇の崩御後ほどなくして、使命が終わった太志命は帰天。

83年の生涯だった。

 

 

今回は太志命が伊雑宮の前に建ててもらった神武参剣道場について。

伊雑宮に行ったことがある人なら分かると思いますが、本当に伊雑宮の入り口の対面。

 

 

伊雑宮はこじんまりとしていますが、御田植え祭をやる神田もあり、鎮守の森も素敵で、伊勢の神社の中では一番のお気に入りです。

伊雑宮の最寄駅は「上ノ郷(かみのごう)」。

まさに神の郷なのです。

 

 

 

伊雑宮ついでにちょっと寄り道。

伊雑宮で毎年執り行われる御田植え祭を、コロナ前に見に行ったことがありました。

 

 

田植え前の水田で、男たちが褌姿で泥にまみれながら、神が宿った竹を奪い合う祭りです。

彼らが泥まみれになりながら竹を奪い合っている最中に、彼らと水田全体を白いモヤのようなものが取り囲んでいたのです。

伊勢白山道さんによれば、あれが神気なのだとか。

神気って目に見えるんですねぇ、と思いました。

 

 

本筋に戻る。

「建ててもらった」と書きましたが、地元の篤志家山路に建ててもらったのです。

深夜遅くまで畑で真剣を振って皇室に襲いかかる邪霊を祓っていた太志命なのですが、近所の人が怪しむと思い建ててあげたそうです。

どんな生活をしていたかというと、神業一筋です。

午前中は誰とも会わずに神業をし、午後は数人人にあって話を聞く。

四六時中、背筋を伸ばして同じ場所に座って正座。主に読書をしていたようです。

 

敗戦後の日本と天皇に襲いかかる共産主義や個人主義、拝金主義を打ち祓い、日本古来の霊(ひ)の元の道を整えるということを日々怠ることなく遂行していた。

 

日の元、つまり日の本(日本)とは、霊の元という意味合いがあるのですね。

愛国を打ち出した団体が「ヤマト」と団体名をつけるのが流行っているようですが、私は「ひのもと」と名乗ったほうが、そもそも本流だと思います。

「ヤマト」で連想するのは近畿地方だけですから。

 

霊感があった彼を私利私欲で利用しようとした人は多く、どのような人物が自分を訪ねてくるのかも事前にわかるので、会いたくない場合は居留守をつかっていたそうです。

霊術も使えた太志命は、会いたくない人が無理やり部屋に入ってきても、自分の姿を相手の目から消すことができたそうです。

 

 

ブログのために拾い読みしていたら、聞き捨てならない文があったので(笑)、そのまま引用します。

縄文晩期に住んでいたという天照大神は伊雑に都をおき、剣の臣と鏡の臣を配下において大倭日高見の国を治めていたという伝承もあるから、もしかすると天の岩戸はこの辺にあったのかもしれない。

ここだけ切り取ると、ホツマツタエ に近いですね。

天照は日向の王ではなく、日高見国(縄文)の王だった可能性が出てきました。。。

 

さらに拾い読みを進めていると、もっと興味深い文が。

このころ集中的に読んでいたのは、先代旧事本紀である。

敗戦後、伝統に回帰しようとする識者たちの間で盛んに研究された書物であった。

古代イスラエルを皇統とすりかえたい、一神教共産主義&国際金融資本勢力の影響で、旧事本紀が戦後取り上げられたことは以前書きました。

 

 

太志命も熱心に旧事本紀を研究していたようですが、上田氏とはちょっとばかり視点が違っていたようです。

旧事本紀の大元である先代旧事本紀大成経に注目。

この書には伊雑宮は「内宮、外宮と並ぶ伊勢三宮の一つであって、しかも一番古く、内宮奥の院の秘密道場である」とあり、この主張が元で江戸時代に捏造書と裁決されてしまった。

これ↑、昔書いたなと↓

 

 

こんなところで「黄檗宗」というキーワードが出てきて、あまり調べても詳細が出てこないのですが、根気よく調査します。

と威勢良く書いてますが、すっかり忘れて調査していないことをここに告白いたします。。。

 

 

「倭姫命世記」によれば、伊雑宮のある伊佐波(いさわ)で倭姫を経済的に支援したのは地方豪族の「伊佐波登美命」。

「登美」と言えば長髄彦。。。

大和が近いですから、長髄彦の一族が志摩一体まで治めていても、なんらおかしくはない。

 

食物豊かな伊佐波ですが、戦国時代は熊野水軍の九鬼氏に侵略され、宮司は殺され田畑を収奪されてしまう。

この時に伊雑宮はとんでもなく落ちぶれてしまって、今に至るようなのです。

九鬼氏によって略奪された伊雑宮の宝物の中には、沢山の古文書や、聖徳太子が編纂したと言われる天皇紀や国記も含まれていたようです。

九鬼文書が偽書と言われる古史古伝の中で重要視されるのは、これが理由なのでしょうね。

九鬼文書はまだ読んでいないのですが、これを読めばさらに消されてしまった大和の縄文や日高見国についてわかるのではないでしょうか。

楽しみがまた一つ増えたw

 

 

調査中出てきた記事。

とりあえず熊沢天皇というワードが気になったので、これも今後のために貼っておきます。

 

 

いつ終わるのか分からないシリーズをまたまた立ち上げてしまいましたが(涙)、最後は太志命の座右の銘をば。

 

「文は義を究め、武は文を護るにあり、文を先んぜよ」

 

長髄彦が今回でてきたところで、来週の水曜日は私の原点、長髄彦に今一度フォーカスいたします!