ネットの盲点「八八八荘」復活!
小さい頃、母親や祖母とよく泊りに行った。まだ刺身や干物を食べられなかった小さなオイラのために板前さんは特別にオムライスを作ってくれた。女将が飼っている「マリ」という犬が夏の花火大会の音を怖がり、押入れで震えていたのをオイラはさすってあげた。二階の暗い廊下の奥の方の、宿泊客がいない部屋の中に入るのだが、怖くて、すぐに廊下へと飛び出した。
そんな数々の思い出をくれた「八八八荘」。数年前、ネットで「八八八荘」を検索してみた。ヒット数:ゼロ。特に有名な旅館でもなかったし、オイラが10歳になる前には閉めてしまったので、ネットが登場するはるか昔に既に存在していなかった。
どんなつまらないこと、些細なことでも誰かが書き込んでいると思われるネット。「八八八荘」のような、目立たない、中途半端な存在価値のなかった過去のものは歴史の闇に飲み込まれたまま、浮上することはないのだ。
しかし、本日のこのブログにより、我が追憶の「八八八荘」はサイバーワールドに再誕したのだ!
3カウントの「絶対」
2011/8/27の新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリングNOAH共催の東日本大震災チャリティープロレス大会「ALL TOGETHER」。オイラも日本武道館に観戦しに行った。どの試合も内容が充実していてとても面白かった。
その「裏」で開催されたINOKI GENOME FEDERATION (IGF)のチャリティー興行。
「ALL TOGETHER」と同日同時刻で開催されたので、こちらは生観戦出来なかった。
なので、同大会はCSチャンネルの「FIGHTING TV!サムライ」で視聴した。
同じプロレスの大会ではあるが、格闘技テイストが強い。純粋なプロレス出身者は少なめで、こないだまで力士をやっていた人間、誰もが知っているK-1戦士、総合格闘技出身者などが登場する。例えるなら、昔猪木がやっていた異種格闘技戦のような感じ。IGFのドンである猪木も「プロレスという言葉を使わなくてもいいのでは」と言うくらい、プロレスとは違うことをやろうとしている(少なくともそういうイメージを打ち出している)。
うまく行けばド迫力のシバキ合いになるし、うまく行かなければ凡戦になる。そういう意味でもハラハラドキドキだ。
そういう「格闘技寄り」の試合が行われる中、ルールにはプロレスにある「3カウント」による決着がある。その他、もちろんギブアップ、KO、TKO、リングアウト、反則などによるフィニッシュもある。
この大会に限らず、3カウントで終わる試合が各大会にいくつもあるのだが、どうも「フォールされている選手の方がカウント3の前に上がっているのに、レフェリーが3つめのカウントを叩き、試合が終了する」というケースが多い。今回の大会でいえば、エリック・ハマーVSアレクサンダー・コズロフ戦は微妙な感じだったが、藤波VS藤原戦は明らかに藤原はカウント3前に藤波の逆さ押さえ込みから脱出していた。
ぶっちゃけて書けば、そのタイミングで決着がつく「決まり」だったのだろう。
それはそれでいいのだが、それであればちゃんとレフェリーが三つ目のカウントを叩くまで、押さえられている選手は肩を上げてはいけない(藤原のような大ベテランがそれだとガッカリする)。
でも、本来そこで勝負がつくはずの場面だったとしても、肩が上がってしまったのであれば、レフェリーは三つ目のカウントを叩いてはいけない。また逆に、まだ勝負がついてはいけないタイミングでフォールされた選手が三つ目のカウントの時にちゃんと肩を上げないケースもある。その場合、基本的にレフェリーは三つ目を叩かない。それもおかしい。肩がついているのだから、レフェリーは三つ目を叩かなければならない。中途半端なタイミングで試合が終わってしまうので、観客はしらけるだろう。だからレフェリーは叩かない。でも、それは肩を上げるべきタイミングでフォールされている選手が肩を上げないから悪いのだ。悪いのだが、客観的な見た目として肩がついているのだからレフェリーは三つ目を叩くべき。
レフェリーは選手の反則を見て見ぬふりをしたり、わざわざ選手の攻撃に巻き込まれて「失神」し、タイミングのいい頃に目を覚ましてカウントを入れたりする。そういう「過程」において試合の演者の一人として試合を組み立てていくのはいいと思う。しかし、最後の最後、勝負を締める「判断」を下す際は「肩上がり判定センサー」であって欲しい。
そこが曖昧だと、レフェリーの存在意義が、そしてレフェリーのレフェリーとしての能力が、さらにプロレスの大前提が問われてしまうと思う。
そこをあまり大切にしないIGFは今いち好きになれない。
好きな選手や好試合があるだけに残念である。
M-1グランプリ2010考察
昨年はテレ朝の策略により、CSチャンネルで放送していた敗者復活戦を途中で放送終了としていた。よほど苦情があったのだろうか、今年は昨年同様テレ朝で敗者復活戦スペシャルを放送したがCSチャンネルの放送は最後の組まで流してくれた。なので、気分よく大会全体について書けるのがうれしい。
ちなみにその敗者復活戦に出場した全67組のネタを採点しながら観たが、その上位の結果は下記の通り。
88点 パンクブーブー
87点 タイムマシーン3号
86点 とろサーモン
囲碁将棋
85点 磁石
84点 風藤松原
ゆったり感
83点 千鳥
トレンディエンジェル
ジャングルポケット
ということで、決勝大会に出場する組を当てさせていただいた。
サンドウィッチマンとオードリーの時も当てた。昨年のNON STYLEの時は外れた。あれはいまだに納得が行かない。といっても、それをいつまでも引きずっていてもしょうがないので、今年当てたことに喜びを感じつつ、決勝大会の各ネタを振り返る。
ファーストラウンド
1)カナリア
ドレミの歌のネタは面白かったが、厳密に言えば漫才ではない。
彼らは「英和辞典」のネタや「アソパソマソ」(アンパンマンではない)のネタといった変ったスタイルが得意で、もともと漫才をやる感じではない(少なくとも漫才を見た事がない)。そういうこともあり、審査員の評価はそんなに高くなかったのではないだろうか。
2)ジャルジャル
良くも悪くもジャルジャルワールド。「レッドシアター」でやるとか、単独ライブの一つのネタとしてやるのはいいだろうが、やはりM-1に向いているネタとは言い難かった。
3)スリムクラブ
「エンタの神様」で「フランチェン」というしょうもないネタをやっていたとは思えないくらいの「破壊力」があった。この破壊力こそが既存の漫才やコントを粉砕する力を持ち、審査員の思考を停止させたのだと思う。
「○秒間に一回笑わせる」という分析がされるくらい、M-1では「弾数」(たまかず)が大事だと言われる。その定説を打ち破る破壊力に新風(爆風?)を感じた。
4)銀シャリ
カナリアのように歌をネタにしていたが、こちらは歌の応酬ではなく、ちゃんとボケに対してツッコむ王道の漫才となっていた。いま、しっかりとした漫才をやるのって銀シャリとU字工事くらいなのではないだろうか。M-1を制する勢いはないが、王道の漫才にはそういう勢いがあってはならない気がする。
5)ナイツ
ヤホーネタではないが、それでもナイツ以外のなにものでもなかった。心地よいボケに対する的確なツッコミ。このツッコミが激しすぎないのが見ていて癒される。一切癒してもらえなかったキングコングやNON STYLEのうるさくて落ち着きのないボケ・ツッコミのスタイルが今年見られなかったから余計にそう感じた。
6)笑い飯
昨年の伝説の「鳥人」(とりじん)の「架空の存在」ネタを踏襲した「サンタ+トナカイ」。ケンタウロスっぽいということで「サンタウロス」と言っていた。トナカイ部分の下半身を「ウロス」と呼んでいたのがとても面白かった。「架空の存在」ネタで来たのは昨年の実績を重んじ、優勝を狙っていた証であるのは言うまでもない。それは決勝ラウンドでより顕著になる。
7)ハライチ
まさにハライチであった。
中田カウスが「一人だけ頑張っていた」・「一人よがり」と言っていたが、それがハライチスタイルなのだ。それって笑い飯に対して「二人でボケとツッコミを交代し続けるのはよくない」とダメ出しするのと一緒である。中田カウスの漫才師としての実績は凄いのだろうが、他者を評論する力はあまりないと思う。
8)ピース
今年の「キング・オブ・コント」で大活躍し、最近しょっちゅうテレビで見る二人だが、言葉の発音で遊ぶネタでM-1を制するほどM-1は甘くないと思う。もっと別のネタはなかったのだろうか?ファーストラウンド4位に食い込むネタでもなかったと思う。
9)パンクブーブー
敗者復活戦の時と同じネタだったが、「結局それって誰も何も言ったりしたりしてないんじゃん!」というスタイルがとても笑えた。決勝ラウンドに進んで当然の面白さ。そりゃあ昨年の覇者だもんね。
決勝ラウンド
1)スリムクラブ
このラウンドでもその破壊力が猛威を振るった。しゃべる量に反比例するかのように、多くの笑いを生み出した。笑い飯に対する「連続してるし、今年こそは」という空気がなければ、スリムクラブの優勝でよかったのではないだろうか。漫才じゃない、という反論もあるだろうが、それで言えば、前述のように今回の出場者でちゃんと漫才をやっていたのは銀シャリだけである。笑いの絶対数値としてはスリムクラブが勝っていたと思う。
2)笑い飯
優勝したい一心で彼らが出して来たのは冒険心ゼロの「架空の存在」ネタ。今度は小銭の神様。つまらないネタではなかったが、サンタウロスには負けていた。番組の最後に紳助が「一つ目のネタを最後にやっていたら審査員もスリムクラブと迷うこともなかっただろう」と言っていたが、その通り。
笑い飯の優勝に異論はないが、もう少し違うネタをして欲しかった(それガチンポジである必要は全くなかったが)。
3)パンクブーブー
審査員の渡辺正行が言っていたが、一つ目のネタと違うスタイルのものを出していれば結果も違ったと思う。同じネタではなかったが、あまりにも毛色の似たネタだった。見ていて、「あ~あ、同じだよ!」と思ったし、スタジオの中でも同じ空気が充満していた。ガラッとスタイルを変えてれば二連覇も夢じゃなかったのになあ。もったいない!
笑いの絶対数値ではスリムクラブだったような気がすると上で書いたが、人間が演じ、人間が審査するものに「絶対」はない。松ちゃんの「笑い飯に取らせてあげたかった」という言葉は本心だろうし、そういうバイアスがあってもいいと思う。人間くさくていいじゃないか!
「SPACE BATTLESHIPヤマト」:大人としての「鑑賞力」
http://yamato-movie.net/index.html
ストーリー:
遠く離れたガミラス星から撃ち込まれるミサイルにより放射能汚染が深刻化する地球。そのガミラス星の敵を退治すべく、そしてそのそばのイスカンダル星から放射能除去装置を持ち帰るたべく、第二次世界大戦中に沈没した戦艦「大和」を改造した宇宙戦艦「ヤマト」に乗って古代進を始めとするクルーが旅立つ。
お話はみんなが知っているアニメ版と基本的に一緒。
それでいいと思う。
多くのファンを持つ原作モノを改めて映画化する場合、原作のどの要素を残し、どの部分を刷新していくかが一番難しいと思う。その判断基準としては「これを変えたらもう原作とは別モノになってしまう」とか「ファンはこの部分こそが大好きなのだからここは変えてはいけない」というものが考えられる。この判断基準に基づいて映画の構成を考えるのにとても大きいのは作り手の原作に対する「愛」だと思う。この「愛」こそが原作ファンとの「共通認識」だったり「共通の思い入れ」だろう。
原作に対する愛が薄く、あくまでも金を生むためのいちコンテンツとして捉えていると、ハリウッド版「ドラゴンボール」になってしまう。「悟空やかめはめ波やピッコロは出ているけど、こんなのDBじゃない!」というやつだ。
逆に原作に対する愛(リスペクトともいえる)があれば、「こことあそこは変わっちゃったけど、やっぱりこれって○○だよね」という風に認めてもらえる。
当然、少しでも原作から構成や設定を変えれば「違う!」と文句を言う者もいるだろう。その気持ちは分かるが、全てを変えることなく原作のまんまで新作を作るのであればハッキリ言って新作を作る必要は全くない。古い作品のDVDを観ればいいのだ。
その時代に合わせたり、技術的革新を取り入れたり、登場させるキャストの個性を活かすために多少の変更は必要であり、むしろ変更していくべきだと思う。あとは「何をどれだけ変えるか」ということである。そこに前述の「愛」が生きてくるのだ。
長くなったが、「SPACE BATTLESHIPヤマト」には製作者の原作に対する愛をたっぷりと感じることが出来た。
同時に、この原作がそもそも2時間程度の映画にすることにあまり向いていないとも思った。
もともとのアニメは約1年にわたって放映された。地球出発まで数回の放送を要し、やっと出発したと思ったら太陽系脱出まで数回、その後も色々な敵や仕掛けに襲われ続け、1年近くかけてようやくガミラス/イスカンダルに到着する。この長い時間の積み重ねと共有があるからこそ、「やっと着いたぞ!」、「いよいよだ!」となるわけだ。
映画の場合、この長い航海を全部見せること出来ない。結果的に、途中何度もワープを繰り返し、わりとすぐに目的地に到着してしまう。もちろん途中でドラマティックな人間ドラマやカッコいい戦闘も登場するが、数十分の経過と1年の積み重ねでは重みが違う。なので、映画だと「えっ?もう着いちゃったの?」ということになる。そこで作品全体としての淡白さが出てしまうのだ。ここは観る側としてもある種の「覚悟」と「諦め」が必要だと思う。大人になって鑑賞に臨むべき、ということだろう。
そこを割り切って受け入れれば、結構カッコいいCG爆裂のSF映画になっている。このスケールの映画でチャチくない日本映画というのは昔では考えられなかった。「CGありがとう!」である。ただ、どうしてもハリウッドの数百億円規模の製作予算の映画に比べるとどうしても見劣りする。日本映画だってCGにハリウッド規模の時間とお金を掛けられればいくらでも豪華になるのだ。そこが多少残念ではあるが、日本映画は基本的に日本国内で製作費を回収しなければならない。ハリウッド映画みたいに全世界で公開して稼ぎ出すテイスト(言語とかキャストとか含め)ではない。そうなると、おのずと製作費の規模が限られてくるのである。そこも大人の理解力をもって鑑賞に臨んで欲しい。
SF映画ということで、スター・ウォーズやインディペンデンスデイやアルマゲドンあれやこれやに似たシーンも数多く登場する。それを「真似だ!」とか「新しくない!」とか言って批判する者もいるだろう。しかし、監督の山崎貴氏は自分がスター・ウォーズが大好きだと言っている。もし僕がゾンビ映画を作るとしたら(作ったけど)、絶対に大好きなロメロのゾンビ映画へのオマージュは入れる。いまどき、「100%オリジナル」の作品なんてない。しかも、原作のヤマトは30年以上も前の作品である。上記作品を含めた多くの大ヒットSF映画はヤマトの後にこの世に出てきたものばかりである。余談だが、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを観た時、「これってドラクエとかと変わらないじゃん!何も新しくない!」という第一印象を持った。そりゃそうだ。「ロード・オブ・ザ・リング」(「指輪物語」)はドラクエやFFやその他のファンタジーRPGが登場するかなり前に登場した「全てのRPGの父」的作品である。あとからルーツを見たら、「これって○○に似てるじゃん!」と言われたって本家としてはとんだとばっちりだ。そういう「時系列」を頭に置き、大人の包容力を持って鑑賞に臨んで欲しい。
原作に対する愛を大切にしつつ、上記のように大人の姿勢で鑑賞出来るのであれば、結構楽しめる作品である。
デスラーがどうだとか、という細かいことだけで作品をけなすことはつまんないよ。
「青いデスラー」が実写で出てきたら「あんなの違う!」と言う者もいれば、「声は一緒だけどこれじゃあデスラーじゃない!」と言う者もいるだろう。でも、製作者が愛をもって「青」か「声」のどちらかを残してくれた・・・このことを尊重しよう。それが大人である。
そもそも「ヤマト」を愛する人って年齢的にみんな大人でしょ?
華名の週刊プロレスインタビュー&女子プロレス
今週の週プロレスの華名インタビュー、二回読んでしまった。
彼女の言い分が全て正しいかは分からないけど、少なくとも女子プロの古い体質(いじめとか目立つ人間を潰すとか)は酷すぎる。大阪出身の彼女に対して 「関西弁をしゃべるな」とのたまう先輩もいたとのことだが、レスラーはそういう差別的思考を持ちながら、関西エリアで試合をしていた(している)んだろうなあ。、レベルが低過ぎる。その低過ぎるモラルが「全女(全日本女子プロレス)イズム」ということになるのか?
「そういう過酷な環境を勝ち抜いた人間こそがのし上がる」みたいな表現で美化をする選手や業界関係者がいるが、練習の過酷さならともかく、いじめとかが横行する状況は「耐え抜くべき環境」ではない。いい加減目を覚ますべきだ。
そういう前時代的な考え方の「培養シャーレ」であった全女の魂(?)を受け継いでる高橋奈苗が引っ張る新団体「スターダム」には現時点では惹かれない。上記の全女の匂いがしないからこそアイスリボンという団体は伸びていると思う。そういう匂いがしないからこそ新人がいっぱい集まり、そこそこ定着するのだ。
しかも高橋奈苗がいるということで、スターダムには全女出身者が「アタシも参戦させて!」と大挙しかねない。
これまでの団体との差別化をしないと、新団体は旗揚げをする意味がない。
負の遺産である全女出身選手を入れる時点でスターダムの先行きが不安だ。
逆に全女出身選手がいなければスターダムは魅力的だと思う。
本当はアイスリボンと華名率いるトリプルテイルズとスターダム(全女抜き)で一緒にやればかなり盛り上がると思う。スターダムの中心人物である風香が復帰したっていい。
いじめや潰しの匂いのしない、ビジュアル的に優れた若い選手がいっぱいいる団体にこそファンは興味を示し、その中で一部は憧れを抱き、新人となっていく。
こういうプラスのスパイラルを生み、是非女子プロレスを生まれ変わらせて欲しい。
「カラフル」:重い色、暗い色、希望の色
「カラフル」
http://colorful-movie.jp/index.html
ストーリー:
あの世で一人の人間の魂に天使らしき存在が話しかける。
「現世に戻り、別の人間の肉体に入り、人生をやり直さない?」
かくしてその魂は睡眠薬を飲んで自殺した中学三年生の男の子の体に入り、その子の人生を生き始める。
そもそも「自分」は何故あの世にいたのか。
そしてなぜよりによってこの見知らぬ少年の体に入ることになったのか。
そんな不条理に疑問を抱きつつ、この魂は少年の家庭内・学校内での悩みと直面しながら生きていく。
親との接し方、兄弟との接し方、同級生との接し方、異性との接し方。
それら場面で人は自分の様々な個性に基づいて行動する。それがその人の「色」となる。
「色々な色」がその人を作り上げる。
そんなことを受けて側に投げかけ、改めて「生きるとはどういうことか」を考えさせる素晴らしいアニメである。
主人公の男の子や家族とオイラは正直全く共感する部分はないが、世の中には共感しまくる人もいっぱいいるはずである。是非この少年の年齢層やその家族と観て欲しい。それがきっかけで人生が変わる可能性があるから。
「ザ・ホード 死霊の大群」:物量ゾンビ
「ザ・ホード 死霊の大群」
ストーリー:
仲間をギャングに殺され、復讐を誓うパリの刑事たち。
ギャングのアジトがあるマンションに乗り込むと、建物の中には「走る系」のゾンビが。
いつの間にかビルの外にも大量のゾンビが。
刑事たちはギャングと遭遇するが、もう両者が敵対している場合ではない。ビル内外のゾンビを倒して逃げるべく、刑事とギャングが手を組み、ありったけの銃弾を撃ちまくる。
ま、そんな感じです。
なぜゾンビが大量発生したのか、ウィルスなのか等々の説明は皆無。
ゾンビがわんさか登場したら、あとは餌食になるまで武器を駆使するだけ。
少しずつビル内を下りていく連中は途中で住人のじいさんと遭遇するのだが、このじいさんがぶっ飛んでいる。
身寄りもないみたいで、現在の「マイブーム」が斧でゾンビを斬りまくること。
そんな楽しみを得て、さらに「打倒ゾンビ」の目標を共有する連中と出会えたじいさんはさらにハッスルする。
数分は撃ち続けられるんじゃないかという弾の数を誇るドデカマシンガンを構え、じいさんはとにかく撃ちまくり、ゾンビの進軍を食い止めようとする。やるぜ、じじい!!!
登場するゾンビの数も、流れまくる血の量も、発射される銃弾の数も他のゾンビ映画の追随を許さないのではないだろうか。
こういう映画を製作するなんて、正気の沙汰とは思えない。やるぜ、お前ら!!!
40歳になって
7/26に40歳になりました。
40歳になったから何かが変わるかといえば、そんなことはない。
20代から30代の時は「いやだなあ」と思った。しかし、今回はそういう精神的な抵抗もない。30代がとても楽しかったので、むしろ40代を楽しみにしてきたくらいだ。
でも、40代になったからといって、急に考え方が変わるということでもないだろう。日々、まじめに楽しく生きるだけ。
人生設計したり、色々と計画する人もいる。それはそれでいい。人それぞれ。オイラは日々、自分の常識とモラルを規範にしつつ(ここに絶対の自信あり)、臨機応変に対応していくだけ。それの積み重ねがオイラの人生になり、オイラと関わる人々の人生の一瞬一瞬となる。
それをこれからも続けていくだけ。難しいことではない。
それよりも、うれしいのは皆さんに多くのお祝いメッセージをいただいたこと。メール、mixi、Facebook、Twitter、そして面と向かって。毎日会っている人から、18年近く会っていない大学の友人まで、様々な人から。
皆様の暖かい心のおかげ、ネットの利便性のおかげ、そしてオイラがいつも皆様に忘れずにお祝いメールを送っているおかげ(^^
これからもよろしゅうお願いいたします!
「インセプション」:理不尽ではない難解
「インセプション」
http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/
ストーリー:
人々が互いの夢に忍び込めるテクノロジーが存在する時代。あるクライアントの依頼を受け、別の人間(ターゲット)の夢に入り込み、その依頼を達成しようとする「夢スパイ」。しかし、そのミッションには多大なる危険が伴う・・・。
ってなくらいしか書けないのだ、ネタバレを避けるのであれば。予告では実際、上記くらいの内容しか明かされていない。後は待ちが折り畳んで上空から降って来たり、建物が崩れたり、人間が空中に浮いている絵が映し出されるくらい。なので、予告ではどういうストーリーかはほとんど分からない。
なので、ここから先はほんの少しだけストーリーについて触れさせていただく。一切のネタバレがイヤだ、という人は読まないでいただきたい。でも、本当にほんの少ししかバラさないから!
夢スパイのレオナルド・ディカプリオに対して、渡辺謙が「ある男の意識に入り込み、その男の考え方を変えて欲しい」と依頼する。
普通、夢に入って出来ることはその夢を見ている人間の潜在意識をのぞき見ることで、その人間が隠していることとか、これから発表しようとしていることを盗むこと。これをエクストラクション(抽出)という。これは普通の夢スパイなら誰でも出来る(簡単に書いてしまっているが、この映画の世界ではそういうことになる)。
レオの場合、夢を盗み見るだけではなく、夢の中で仕掛けをし、夢を見ている人間にある考え方の「種」を植え付ける。これをインセプションという。ある考え方の種が芽吹くと、その人間はその種の内容に沿った考え方をするようになり、その考え方に沿った行動を取るようになる。依頼主が希望する種を植え付けることが出来れば、植え付けられた人間は依頼主の希望に沿った行動を取ってくれる、というわけだ。
しかし、この種を植え付けるという作業が非常に難しい。いかにも「あなたの意識にこういう種を植え付けましたよ!」と分かりやすくしてしまうと、植え付けられた側は「これは私の考え方じゃない」という風に思ってしまう。極めて自然な形で種を植え付け、植え付けられた人間が「これは私の考えだ」と思わなければならない。というよりも、誰の考えかをいちいち考えないくらい自然な形でその人間の潜在意識の一部とならなければならない。
このややこしいことが出来るのがレオとその仲間たちなのだ。
そしてこのややこしいことを何故レオが出来るのか、そのためにはどういう条件を満たさなければいけないのか、どういう邪魔や危険性が存在するか等々が怒涛の映像とともに伝えられる。
簡単な内容ではないので、頭の中が「???」となってしまう方も結構いると思う。しかし、説明が不足しているとか、その説明が破たんしているとか、そういうことは全くない。理不尽な難しさではないのだ。ちゃんと必要なことは全て説明されている。
これだけの難解な設定を成立させながら物語をきちんと伝え、なおかつその映像で観る者を驚かせ続けるこの作品。ひたすら圧倒的で、物凄い。どえらいものを見せられた。
きっと、そう思わせる種を植え付けられたのだろう、映画を観ながら。
「ハングオーバー!」:壮絶な面白さに酔いしれろ!
http://wwws.warnerbros.co.jp/thehangover/
ストーリー:
あと2日で結婚する友人を誘い、ラスベガスで彼の独身最後の「ハメ外し」タイムを過ごす野郎たち。滞在先のホテルで男ども4人は酒を一気飲みし、そこから夜の街へと繰り出す。そして目覚めると3人は自分たちの部屋で寝ていた。しかし、部屋の中はむっちゃくちゃ。そして次の日に結婚を控える男が行方不明に。昨晩の記憶が全くない3人は消えた友人と消えた記憶を追い始める・・・
昨年アメリカで爆発的にヒットしたおバカコメディー。
「日本ではヒットしないだろう」という今どきありがちな保守的経営判断(うちの会社もしょっちゅうそんな判断をしている)の結果、なかなか日本公開が決まらなかった。映画ファンの熱烈アピールでようやく日本公開に。
渋谷で観て来たが、館内は満員(そもそも公開館数が少ないから、ということもあろうだろうが)。
そして観客はみんな爆笑に次ぐ爆笑。
アメリカで大ヒットしただけのことはある。
文化的に日本人に通じないような内容ではない。ハメを外しすぎて二日酔いしてしまった馬鹿男たちの話だ。なぜそれほどまでに日本公開を恐れる?
確かに日本人はあまり洋画を観なくなった。非常によろしくない事態である。
面白いものであれば日本のものであろうと、外国のものであろうと、ウダウダいっていないで飛びつけばいい。
面白いものに対するアンテナが働かず、面白いものに飛びつかない者が面白い人間であるはずがない。
だからユー、観ちゃいなよ!
飲み過ぎて失敗したこと、多くの皆さん、心当たりがあるでしょ?
あってもなくても楽しめるから是非ともこの作品を味わっていただきたい。
