どうも、すこっちです。(^^)
今日は2月4日(日)に行われた「クラブウィルビーアカデミー2024」のお裾分けタイムPART3としまして、安藤優子さんの講義の中からです。
【報道人生のスタート】
大学生のとき、アルバイトとして採用された。
メインの男性アナウンサーの隣に座ってうなずくのが私の仕事だった。
視聴者から「あの女性は愛想が良くない」という電話が殺到したため、「笑う」という仕事が追加になった。私の仕事は隣に座り、「うなづく」+「笑う」になった。
もうしょうがない、この世界で生きていくためには自分をペット化して居場所を作ろうと思った。ジュース買ってきてのリクエストも嫌がらずに「はい!」と言って従順に仕事をこなした。
しばらく経って自分が仕事が出来るようになると、おじさんが危機感を感じるようになった。
ひょっとして、この女に自分の仕事を取られるんじゃないかとおじさんが疑心暗鬼になった。
おじさんの敵対心、嫌がらせ。そこで、「私はおじさんの敵ではないよ!」という意思表示をするようになった。略して「おじさんに同化作戦」新橋で呑みにも付き合うこともあった。
だって、波風を立てても得することはなにもないから。
昔の報道の職場は性別役割分業制で政治経済は男性、女性は主に天気予報担当だった。
女性はこうあるべき 対に 男性はこうあるべきという思考が日本にははびこっている。
インフォーマルな制度 意識の中に埋め込まれている言語化されていない無意識なルールが日本社会を縛っている。
例えば、食事に行ったら男性が支払う。女性は奢ってもらう。飲み会で女性がコンパニオンみたいなことをする。etc
女性は家庭長として機能すれば(女性が文句を言わず、家事・育児・介護の担い手として従順であれば)家庭内安全保障が維持される=国家の福祉予算が削減できるという古い考え
自助=家庭長任せ 共助=ムラ=共同コミュニティ任せ
パンとサーカス=食糧と娯楽を与え続けると堕落する=イギリス病、先進国病
男性陣には耳の痛い話が多かったような、、、。(-_-;)というか、日本という国家の伝統というか体質というか長年刷り込まれた慣習なんでしょなぁ。「女のくせに」という決めつけの言葉の裏には「男のくせに」という対の言葉が常に付きまとう。女性はその言葉で傷ついたり、反骨精神で頑張ったりした方もいたんだろうけど、一方で「男のくせに」の一言で萎縮して、自身を喪失していった男性もたくさんいたことでしょうにね。
昔、「トミーとマツ」という刑事ドラマがあって、松崎しげるが国広富之に対して「男女の富子」という罵声を浴びせると、トミーが超サイヤ人みたいになって悪者をぶっ倒すってシーンがあったけど、あれもダイバーシティ(多様性)の今の世の中に当てはめると立派なハラスメントカウントになるんだろうなぁ。
インフォーマル全盛で、不適切な表現が許されていた1980年代から40年。
時代は丸く優しくなって、男も女も住みやすい時代になったと言えるのかもしれませんが、一方で昭和の時代の油っこさというか、角張った突起物のようなものがどんどん擦り減って失われてしまったように思うのはアタシだけでしょうか?