どうも、すこっちです。(^^)
パ・リーグのクライマックスシリーズ進出の最後の1席を賭けた大一番が今日、10月9日に開催されるはずだったのですが、週間天気予報で雨の予報だった通り、「ENDLESS RAIN」(BY X)となり午前中には早々と中止、明日に順延となりました。
本当だったら、祝日で試合開始は14時だし、千葉から大勢のマリーンズファンも大挙して訪れていたんだろうし、もし試合が行われていたら、グッズは売れるし、フードは売れるしで、楽天球団としてはやってもらった方が興行的には大成功だったんでしょうなぁ。
まあ、明日も雨の予報だけど、試合は出来るようなんで、明日に期待しましょう!
楽天ファンのみなさんは験担ぎとして「キットカット」(きっと勝つ!)でも食べて、「コアラのマーチ」をたくさん口に放り込んどいてくださいな。(ロッテを喰らう)
いつの世も、思い通りに行かないのはプロ野球のペナントレースも、武家の後継者問題も一緒なんだなぁと感じさせてくれるエピソードを今日はご紹介しましょう。
仙台藩2代藩主は政宗様の次男の忠宗公。
彼は早くから政宗様から君主としての薫陶を受けて来たので、徳川家や他の藩主と良好な関係を保ち、仙台領内における治世も安定し、サラブレッドが期待通りの働きをしてくれていました。
ここで問題となってくるのが、治世の継承。
忠宗様の長男虎千代はなんと、7歳で早世。(昔は子供が思うように育たなかったのです)
次男万助(万千代)が後継者と目された。幼少の頃から、文武に優れていた(今で言えば、学業の成績優秀でスポーツ万能ってとこか)万助は寛永16年(1639)江戸城中で元服し、3代将軍家光から1字を拝領して光宗と名乗った。寛永20年には17歳で従四位下・侍従という官位をもらっている。
正保元年(1644)10月には仙台に初入国を果たし、父忠宗の代わりに国元での様々な行事をこなし、牡鹿半島での狩りでは900頭以上の鹿を自ら仕留めるなど(ちょっと、仕留め過ぎなのでは?鹿は神聖な神の使いとも言うし、後で祟りがなきゃいいけど)藩内の人々は「こりゃあ、100年に一人の逸材の誕生かぁ」と期待を一身に集めていたそうな。
もうね、ここまでの時点で「伊達光宗」誕生!順風満帆に仙台藩3代藩主としての階段を着実に登ってるよねー、仙台藩も安泰だなと誰もが確信していた。
しかし、そう思い通りに行かないのが世の常。
翌年2月に江戸に戻った光宗は、その年の夏に病を発し、あれよあれよという間に病状は悪化。療養の甲斐なく9月4日に19歳の若さで亡くなってしまう。(ほらな、鹿殺し過ぎたんちゃう)
幻の3代藩主「伊達光宗」。出来の良い後継ぎを幕府が毒殺したんじゃないか的な陰謀説も流れたらしいけど、伊達家の力を削ぎ落とすために幕府がそこまでやるとは考えづらい。
かくして、気になるのは光宗が没した時点で忠宗公に残された男子リストは!と言いますと、三男の亀千代、四男の五郎吉、五男の辰之助、六男の巳之助、七男の藤松丸(結構いますねぇ、今だったら考えられない)とよりどりみどり。だったのですが、亀千代はすでに鈴木家の養子に入っていて、NG。五郎吉は登米伊達家の用紙となったあとに早世。辰之介、巳之助、藤松丸はまだ幼少であり、忠宗公も46歳とまだ働き盛りだったので後継者問題は一旦棚上げとなります。
その後、五男辰之助が五郎吉の後釜として登米伊達家を継ぐことになり、跡継ぎカードの3枚のうちの1枚を使い、残り2枚。六男藤松丸は一門の伊達国隆の養子となり、とうとう跡継ぎカードは最後の1枚を残すのみとなった。
そう、その最後の1枚こそ「伊達騒動」の発端となったと語り継がれる、あの男。
忠宗公の正室振姫様が、巳之助を産んですぐに亡くなった貝姫様のことを哀れんでご自身が養母となり、巳之助を育てていたので、養子に出されずにキープされていたんですな。
承応3年(1654)15歳になった巳之助は元服し、4代将軍家綱の1字を拝領して綱宗を名乗り、従四位下・侍従兼美作守に任ぜられた。これは幕府が綱宗を忠宗公の後継者として公認したことを意味する。
光宗様が存命中は、「後継者は光宗様で決まりだな」と誰もが確信していて、そもそも6男の巳之助には全く期待をしていなかった。なので、よくある「どうせ俺は、、、。」的なやさぐれ根性も相まって、このとき巳之助は立派な放蕩息子に成長していた。
忠宗公も周りもさすがにこれではまずいだろうと、散々注意を促すのですが、まあ一度ひん曲がった性根がそうそう治るもんでもありません。常識人の忠宗公はイエス・キリストの放蕩息子の例え話のような心持ちにはなれず、廃嫡も考えたそうです。
後継問題を明確にしないまま、万治元年(1658)忠宗公が病の床に付いてしまいます。
日に日に病が重くなっていく忠宗公。とうとう、決断の時を迎えます。
そう、あの放蕩息子を跡継ぎにする。という決断です。
かくして7月12日に忠宗公がお亡くなりになり、第3代仙台藩主伊達綱宗が誕生しました。
そこから先の話は、、、。はい、例の”伊達騒動”こと”寛文事件”へと繋がる分けなのです。
井伊家当主の十四男として生まれ、32歳までやさぐれ人生を送りつつ、その間しっかりと勉学に励んでいて、チャンスを掴んだ井伊直弼と比べると、なんだかなぁ。
忠宗公が亡くなったこの頃から、伊達家の目の上のたんこぶである門閥の「一門衆」が君主の後継問題にも首を突っ込んでくるようになり、仙台藩が混迷を迎えることになるのです。
あれ?どっかの球団にも確か同じような構図があったような、、、。(-_-;)