どうも、すこっちです。(^o^)
いかがでしたでしょうか?昨日の”青物市場をめぐるバトルな話”。
温厚な人が多いと言われる東北の仙台でも、生きていくための死活問題においては人々は振り上げたくない拳を振り上げて、仲間や家族や自分を守ってきたんだなぁということなんですわな。
では、昨日に続いて、もう一つのバトルな話と参りましょうかね。
政宗様が城を岩出山からえいやっ!と寒村だった未開の地千代の名を”仙台”と改めて、城を築きました。(これが仙台城)民族大移動も敢行し、巨大都市”仙台”という城下町が出現します。
そうなると、一大消費地となった仙台ですから当然、野菜だったり、お魚だったり食料が大量に消費される=大量に集めなければならなくなります。
基本的に肉は食べない江戸時代の人たちですから、主なタンパク源はやっぱり魚介類。
海産物のことを五十場(いさば)と呼ぶんですが、大消費地仙台にお魚を新鮮なうちに運ぶには、当時は塩釜の港がもっとも適した港でした。
しかし、庶民の生活を第一に考えた我らが伊達政宗様とその意志を受け継ぐ伊達家。
仙台庶民の胃袋を満たすため(?)政宗様からスタートした後の”貞山堀”は木曳堀→七北田川の改修工事→御舟入堀(おふねいりぼり)開削事業へと発展し、運河の発展によって、海産物が海から川、川から陸へというスムーズな物流体制が整いつつありました。
これはこれで大変結構なことだったのですが、ここに一人の迷君もとい名君が水を差します。
伊達家は代々、奥州一宮である塩釜神社をとても大切にしていました。
政宗様以降、歴代の仙台藩主が神社の「大神主」として祭事を司りました。
中でも4代藩主伊達綱村公は塩釜神社を手厚く保護しまして、現在の神社の建物のほとんどは綱村公の命によって建てられたものなのです。
江戸時代の中頃、運河が作られたことにより塩釜の港への海産物の荷揚げが減ったことなどにより、塩釜の町は大きく衰退していました。
そこで、綱村公は塩釜を救うために”貞享特令”という特別な命令を出します。(1685年)
分かりやすく言うと、塩釜という町を再建するために、塩釜だけをえこひいきしてあげちゃいますよーという法律なのです。どんなえこひいきだったのかと言いますと、
1 年貢を軽くしたりなくしたりする
2 藩が250両ずつの下賜金を与える
3 馬市を開くことをゆるす
4 見世物芝居を春と秋に行うことをゆるす
5 自由に新しい田をつくることをゆるす
6 商人の荷物、五十場船、材木船は全て塩竈につける
7 港の整備
そう、この6番目が今日のバトルの導火線となるのです。
貞享の特令によって、漁師が採ってきた魚は全部塩釜の港に水揚げされる。塩釜には黙っていても魚がバンバン水揚げされますから、塩釜の仲買人はいい値で買い叩く→漁師は魚が高く買ってもらえないという悪循環にフラストレーションが募っていきます。もともと貞享の特令が出るまでは、自分たちの近くの港で水揚げして、直接売りに行っていたものが、御上のえこひいき法令のせいで叶わなくなった。
これに異を唱えた七ヶ浜の漁師たちが御上に訴えます。
「塩釜だけ特別扱いなんて、おかしいだろうが!今すぐこんな悪法は撤廃してくれ!」
この訴えを御上が渋々認めて、貞享特令を一部緩和して、七ヶ浜漁民が自分たちの港で水揚げをすることを認めてもらえることになりました。
意外と聞く耳を持っている伊達家。
さらにさらに、火種は拡大します。
貞享特令から5年後、七ヶ浜の漁民たちが一致団結して、今度は貞享特令自体を撤廃して欲しいと請願を出します。しかも、今度は遠島(牡鹿半島)の漁民たちもこれに呼応して、連携します。
この訴えも認められ(素直だね伊達家)、一部緩和を勝ち取ります。(良かったね、漁民連合)
こうして、五十場(いさば)を巡るお魚バトルはジ・エンドとなる分けなのですが、あの綱村公が出した貞享特令はその後、どうなったのか?
実は貞享特令は江戸時代の終わりまで引きつがれまして、塩釜は仙台藩有数の港として大きく発展しましたとさ、めでたし めでたし。(?)
今となっては、貞享特令、塩釜VS七ヶ浜&牡鹿連合軍のお魚バトルがあったなんて、誰も知るよしもありませんが、そんな歴史の1ページを覚えておくと、いつかどこかで役に立つことがあるかもしれませんよ。
革命戦士”七ヶ浜と牡鹿連合軍の漁民にあっぱれ!です。(^o^)