知っておきたいコロナのトリビア「曝露と感染と無症状と発症」 | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

くどうも、すこっちです。(*^^*)

 

コロナウィルスの感染者数(正確には陽性者だけど)が相も変わらずの世界レベルの日本。

 

テレビやラジオや新聞で連日垂れ流される偏向報道によって、善良な一般市民は情報の渦に精査の判断が出来なくなり、ある一定の日を境にして、耳を塞ぎ始めてしまった。つまり、あんましマイナス要素のあおり情報ばっかりで、今までの情報をアップデートする内容だとしても上書きをしようとしない、自分が以前にインプットした情報以上のことは聞こうとしない「あ~うっさい、うっさい、もういいたくさんだ!」という状況になりつつある。

 

これは由々しき事態である、と同時に日本人あるあるなのかもしれないという不安。

 

だが、このブログでも繰り返し書いていますが、自分の身を守れるのはあくまで自分だけ。

 

誰もあなたの心も体も守ってはくれない。だから、気になることは自分で掘り下げて、深掘りして知識武装をしていくしか無いんです。それは=自分の命を守り、愛する人の命を守ることに繋がる。だから、SNSやブログで情報発信してくれている人の意見には、真摯に耳を傾け、自分が何を信念として、この先の嵐に耐えて生き抜くかを真剣に考えていくべきだとアタシは思う。

 

そこで、今回のコロナのトリビア、「曝露と感染と無症状と発症」についてぜひとも知っておいて頂きたい。

 

①ウィルスはどこにでも存在する。人の体の中にも知らないうちにウィルスはいっぱい入っている。だからといって、怖がる必要はない。だって、今まで人間も動物もウィルスもそんな環境下で共存共栄してきたのだから。ウィルスが人の体に入ったからといって、病気を起こす分けではないのです。

 

②例えば、私たちの喉や鼻の粘膜にウィルスがくっついた状態。これを「曝露(ばくろ」というのですが、これだけでは病気にならない。仮にくっついたとして、そこでは自然免疫や獲得免疫とう防衛機能が働いて、ウィルスを退治する。(だから、くしゃみや咳が出たり、喉が腫れたり、熱を出したりして、悪いウィルスを追い出そうとしているわけなのね)

 

③しかしそこで、腔内の傷ついた粘膜などから新型コロナウイルスのスパイクタンパク質からタンパク分解酵素を利用して、人間の細胞のACE2受容体に取り付いて侵入し、ウィルスが細胞に取り込まれてしまう。この状態を「感染」という。

 

④しかし、仮に感染をしたとしても病気の症状が出ないまま、治ってしまう人もいっぱいいいる。症状がないのだから、健康な人となにも変わりがない。これを「無症状」という。

 

⑤なので、あくまで感染して、病的な症状が現れ出た状態を「発症」と呼ぶ。

 

つまり、2019年以前の新型コロナウイルスうんぬんかんぬんが世の中に登場する前は、②「曝露」③「感染」④「無症状」の人たちはなんの異常も認められない健常者だった。

 

それが、ただただPCR検査キットと抗原検査キットという闇の連中の「聖なる剣」(呪悪な剣だろ)みたいな検査で、「陽性」と判定されただけで、じぇんじぇん症状が出ていない人までもが、「陽性」=「感染者」=「危険分子」と認定され、10日間の自主隔離政策(アホルトヘイト すこっち命名)を余儀なくされる。

 

しかも、以前このブログでも書いたように、PCRも抗原検査もコロナウィルスであってもなくても、ウィルスが生きていても死んでいてもウィルスの僅かな断片を拾われて、「偽陽性」の判定をされてしまっている人も数多く存在している。

 

これで、お分かり頂けただろうか。「曝露」「感染」ではないのだ。

 

ただ、あなたにアドバイスを一つだけ。

 

こうした知識を全面に押し出して、決して相手を論破しようとしてはいけない。だって、世の中の思考停止の人達はどこまでいっても、ほとんどが政府やマスコミの言うことを鵜呑みにする、あちら側の人間なのだから。

 

だから、自分の中に知識として留めておく。そして、知識を常にアップデートする。アンテナを高くする。アンテナを錆びさせない。そして、大事な知識は自分の大切な人を守るために使う。

 

もし、同じ考えを持つ人に運よく巡り会えたら、その時は今まで蓄えた知識を披露して、知識の擦り合せをぜひ行ってみて欲しい。グータッチが出来る人だったら、仲間が増える。そうして、仲間を増やしていって、嵐が過ぎ去るのを待つ。いずれ、そうした仲間の絶対数の方が多くなって、風通しの良い毎日がやってくると、アタシは信じている。

 

来るべきその日まで、静かなること林の如しなのである。