どうも、すこっちです。!(^^)!
いやー今日は寒い一日でしたね~。夜はもっと寒さが身に浸みるというのに、楽天のナイター観戦の皆様ご苦労様です。今、試合が終わったようだけど、5対0の完勝じゃあないですか!まあ、勝利が何よりのホッカイロじゃあないですか?問題は岸以外の人が登板するときですよね。(-_-;)
さて、今日もみなさんと一緒に伊達政宗についての理解を深めて参りましょう。
徳川の世となってから、伊達家と徳川家の関係は大変良好なものであった。それは、とにもかくにも戦国の世を共に手を携えて乗り越えてきた政宗と家康の信頼関係もありましたが、それ以上に政宗が徳川家に対して忠義を尽くすということを一番に考えて行動をして来たからに他なりません。
ときは3代将軍、家光の時代。政宗は常に大脇差を好んで差していた。この大脇差、知る人ぞ知る名刀でして、「鎬藤四郎」(しのぎとうしろう)と言います。これは、政宗が太閤秀吉から拝領した形見の品だったんです。なので、とても大事にしていたし、愛着を感じていたのです。
そんな政宗が将軍の前ではいつも脇差は外して進み出ていた。ある時、家光は「そちは老年ゆえ、今後は脇差を帯びたまま、予のそばに来るがよい。」とリップサービス。フツーに考えたら、命を狙われるかもしれないシチュエーションで凶器を持ったまま、そばに来いとは家光クンも大したもんだ。
この家光の言葉に政宗は感涙にむせび、「このようなあり難きご厚恩を賜り、死んでも忘れません。」と返答したまでは良かったが、その日は飲み過ぎたのかな?酔いつぶれて、将軍家光の前でいびきをかいて熟睡してしまった。(なんとも、大物中の大物なのか、信頼関係が出来上がっている証拠なのか)
そこで、そばに置いてあった例の大脇差(鎬藤四郎ね)を近習の者がひそかに抜いてみたところ、中身はな、なんと木刀だったんだそうです。これって、凄い気遣いだよね。はたから見たらさ、護身用に大脇差を持っていると思われてもおかしくはないし、刀は武士の魂だから。だけど、政宗はあえてその「鎬藤四郎」だと思わせつつ、実は中身は木刀。「私は上様の前では、丸腰ですよ。」という意思表示だ。
このあたりが、「天下の伊達男」たるゆえんかもしれいないですね。!(^^)!
また、ある時。この「鎬藤四郎」を2代将軍秀忠公に献上するように徳川家の家臣、内藤外記正重に進められたことがあった。さて、政宗はどんなリアクションを見せたでしょう?(家光の時の話を先にしちゃったんで、なんとなく想像がつくかな)
政宗は烈火のごとく怒った!
「これは、故太閤殿下の形見である。絶対に差し出せない。」と断ったそうです。
徳川の世、相手は将軍、こちらは外様。昨今の流行語である「忖度」を持ち出すサラリーマン大名だったら、間違いなく「どうぞ、どうぞ、上様に献上いたします。」ってな話なんだろうけど、そこがさすが我らの伊達政宗様ですよ。それでこそ、正真正銘の「伊達男」だよ!
が、しかし政宗はこの名刀「鎬藤四郎」を伊達家の役に立つ大事な場面で、「リーサルウェポン」として将軍家に献上してしまう。(えーなんで、太閤殿下の形見って言ってたじゃん)
その大事な場面とは、仙台城二の丸築城、まさにその時なのでありました。
武家諸法度の法整備も整いつつあったこの時代、いくら将軍家と信頼の厚い伊達家と言えども簡単に新たなお城の築城許可なんて下りなかった。それを、あっさりと認めてくれたのは、はい、もうお分かりですよね、将軍家が前から欲しがっていたこの「鎬藤四郎」を献上したからなんです。そう、二の丸の築城許可と引き換えだったんですねー。
政宗存命の時に、後継ぎの忠宗にどうやらこんなことを言ったらしいのです。(砕けた文章で書いてます)
「アタシの建てた仙台城本丸の城は、上杉を牽制する絡みもあって、あれだけ堅牢な城を建てちゃったけど、今の戦の無い時代になっては、毎日家臣が通うのが大変でしょ。だから、もうちょっと低い所にお城を建てなさい。若林城を取り壊して、部材を転用すれば安く上がるでしょ。」
「えっ、なに?、あの家光様が簡単にお城の許可を認めてくれないでしょうって?」
「忠宗よ、心・配・ご・無・用。(あーこれ、太閤殿下直伝ね)
「築城のお願いをする時に、この太閤殿下の形見の「鎬藤四郎」を献上しなさい。」
かくして、築城願いはすんなり認められ、寛永15年(1638年)仙台城二の丸が完成したのです。
ちなみに、この「鎬藤四郎」。私が入手した情報によると、「明暦の大火」で江戸城と一緒に燃えてしまって、残念ながら現存していないようです。(見たかったね~)