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 ◆三沢 光晴(みさわ・みつはる) 
1962年(昭37)6月18日、北海道夕張市生まれの46歳。
プロレスラーを志し、レスリングの名門・足利工大付高に進学。
国体優勝などの実績を引っさげ、ジャイアント馬場率いる
全日本プロレスに入門し、81年8月21日、越中詩郎戦でプロデビューした。
84年にメキシコ武者修行に出て、帰国後2代目タイガーマスクとして活躍。
90年5月から素顔で戦い、92年8月に3冠ヘビー級選手権を獲得。
その後、川田利明、小橋建太、田上明らと四天王プロレスを展開したが、
00年6月に退団。同年7月に「ノア」を旗揚げし、社長として
マット界を引っ張った。1メートル85、110キロ。



2009年6月13日 22時10分 三沢光晴 永眠


【死因】
頚髄離断・・・頚椎断裂により頚髄が断裂してしまった。
       頚髄とは、首の骨や背骨を通って腰まで伸びている
       神経=脊髄のうち首部分のこと。
       リング状の首の骨の中を通っており、首の骨折や強く
       曲げられたりすると、その中の頚髄が断裂する。
       頚髄が断裂すれば呼吸停止、心肺停止に至る。
       よって多くは即死、またはそれに近い状態になる。




私の尊敬する三沢光晴が亡くなってしまった。
この事実を受け止めるのにかなりの時間がかかった。
今でも受け止め切れていない・・・。

上記のように素晴らしい選手であり、人間としても立派であった。
彼を悪く言う者は殆どおらず、日本マット会の宝であった。

選手としては受け身の上手さに定評があり
今回のバックドロップでの死は全く信じられない。
しかし死へ至った理由はやはりバックドロップの落とし角度、
受け身のミス、長年のダメージの蓄積しか考えられないのである。


【バックドロップ】
この技の受け身としては、頭・首・肩を同時につける
(より平面に近い状態を作る)ことによりダメージを
分散するのが通例である。これをプロレスラーは計算してやるのではなく、
入門後にとことん体に覚えこませることで実行している。

特に齋藤彰俊のバックドロップは捻りをくわえるので
受け身はしっかり取らないと危険である。


2002年3月週プロのインタビュー で斉藤は言っている。

※バックドロップが、他の選手と違って少し変形ですよね。

俺のバックドロップ、最後にひねりを入れるんすよ。そのほうが
見た目が良くて、マットに突き刺さる感じするでしょ。
見栄えがいいんだよね。


※危険じゃないんですか?

まあ、少しくらいはね。受ける側がちゃんと受身トラないとね。
先輩方に注意されたことあるんだけど。まあ、その時は「はい」って
いったけど、心の中では、「それが俺達の仕事だろ」って思ってたよ(笑)
もちろん、このスタイルは変えるつもりはないよ。



と言う具合であるから余程すごい角度で落とされたと最初は思っていたのだ。
頭頂部、もしくは前頭部から落ちたのかと・・・。

ところが雑誌の連続写真を見るとさほど急角度ではない。
鶴田やウィリアムス、最近では森嶋のバックドロップを受けてきた
三沢であるからこの程度は受け身がとれるであろう。

しかし受け身をみる限り腕を引いての肩の受け身は実行に移されようとしているが、
アゴの引きが遅れたか弱かったかでバランスが崩れたようだ。
そして、たまたま上位頚椎に圧力が集中する落ち方をしてしまい一発で折れてしまった、
神経(脊髄)が一発で切れた、と考えられる。

では何故アゴの引きが遅れたのだろう。


【体調不良】
三沢は首を前に曲げられなかったらしい。
首を前に曲げられないのは以前から頚椎のズレがあったんだろう。
その他下記の事実が判明した。

・ 3年前から体調不良を訴えていた
・ 疲れが取れるのに3日はかかる
・ 10分か20分のスパーリングでもとにかく疲れる
・ ひざの痛みで1人で立つこともできず付け人の肩を借りた
・ 「とにかく首とひざが痛いんだ」と訴えてた
・ 飲み始めて1時間後には目の下に大きなくまができるようになった
・ 年内引退決めていた
・ 亡くなる数日前の試合では序盤からふらついていた

上記のように三沢の身体はボロボロであった。
6月18日で47歳になるはずだった三沢は地方の試合でも
絶対に手抜きをせず、常に全力投球。
社長業も兼ね、心身ともに限界に達していた。
今回のツアーでは本調子にはほど遠かったと指摘する声もある。

頚椎のズレの為、また本調子にほど遠い体調で三沢は
齋藤彰俊のバックドロップの際にアゴの引きが遅れ
今回の事故に繋がったと考えられる。
これは齋藤以外のバックドロップでも同じ結果が想像され、齋藤が悪い訳ではない。
心無いファンが齋藤の自宅に嫌がらせをしているらしいがそれは筋違いである。
本当の三沢ファンであるなら齋藤を責めてはいけない。
今回の事故は偶然が重なっただけだ。


【ストレス】
社長兼看板レスラーの三沢の立場は、プロ野球の
プレーイングマネジャー(選手兼監督)を上回る過酷な重職。
とりわけ、今年3月にテレビ地上波中継を打ち切られてからは
金策に頭を痛めていたという。
放映権料が年間1億5000万円とも2億円ともいわれ
三沢は大幅な収入減に頭を抱え、体調が悪いとも漏らしていた。
それでも看板レスラーの宿命で、おいそれと欠場するわけにはいかなかった。
「おれが出ないとお客がこない。会社がつぶれてしまう」とこぼしていたという。

一人でスポンサーを探し回り、金策に追われ
自宅を抵当に入れてまで、若手に都合していたという。
若手を教える仕事もあるから、社長業+指導者+選手という
一人三役を三沢は黙々とこなしていた。
それでも集客のために、試合せざるを得ない。
ノアの選手みんなが、三沢に甘えておんぶに抱っこだったと思われる。

練習時間も削られていく。
身体がなまっていく。
怪我は治らない。
金策に走らなければならない。
集客の為に試合は休めない。

この悪循環に三沢の命は削られてゆく。


【三沢の夢】
三沢は年内で引退し、起業家として新たな人生を送る決断をしていたという。
ノアが10年目を迎える節目を機に、マットから去ることを
決意していた可能性が高い。引退後は会社を立ち上げるなどのプランを持っていた

レスラーとしてはプロレス統一の夢を持っていた。
三沢は常々「プロレスをメジャーにしたい」と言い続け、
乱立する団体の統一化を構想していた。06年には
ノア主体のグローバル・レスリング連盟を創設したが、
武藤の全日本と新日本の名はなかった。しかし、今年に入って
3団体が歩み寄り、構想実現へと動きだしていた。

しかし志半ばにして三沢は倒れてしまった。






三沢が亡くなってからの数日間、私は三沢の死因及びその背景を
雑誌・新聞・インターネット・2チャンネルに至るまで
読みまくり、そしてようやく結論に達した。

しかし三沢は戻っては来ない。

この脱力感はなんだろう?
私はプロレスファンではなく“三沢ファン”であったのだ。
三沢の愛したプロレスをいつまでも応援していたいのだが
三沢がいない今、プロレスを見るのが辛いのである。

あのマットを見ると6月13日の惨事が蘇ってくる。
倒れた三沢を介抱する写真や映像の数々・・・。
あれらは異常である!

三沢はほぼ即死であったのだ。
頚髄が切れているのであるから人工呼吸、心臓マッサージ、AEDしても意味がない。
死体になってしまった三沢を画像が追う、映像が追う・・・。

考えてみて下さい。
交通事故で亡くなった人間の顔を新聞に載せますか?
蘇生を試みている映像をテレビで流しますか?

これはプロレスだから許されるのでしょうか?
それがまかり通るのであれば私は二度とプロレスは見ない。

今回の事故はそれはそれで納得せざるを得ませんが
死者を冒涜するような行為は断じて許してはいけないのである。
ましてや事故の加害者への嫌がらせは言語道断である。

三沢が愛したプロレスを今後も応援したい気持ちと
二度と見たくない気持ちが入り混じっているのです。

でも三沢の試合のビデオは見るでしょう。
最初から最後まで一通り見て
再びプロレスを見るか否か結論付けたいと思います。


三沢光晴 勇気ありがとう

謹んで御冥福をお祈り致します。