産経症・「海ゆかば」の歌詞を示さず、絶賛する
海ゆかば、水漬く屍
山ゆかば、草生す屍
大君の辺にこそ 死なめ
かえりみはせじ
要は、天皇のために死ぬのなら、海や山でうち捨てられた屍になっても構わない、とそういう内容だね。
Wikiにはこう載っている。
「この曲を大いに印象づけたのは、「玉砕のテーマ」として、則ち太平洋戦争末期にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)の際に、その内容が玉砕である場合、番組導入部のテーマ音楽として用いられたことである。」
確かに玉砕賛美の内容ですな。
当時この歌を実際に聞いて育った世代はともかく、戦後世代が聞いて「「涙が出て困」るほどに感動する」ような内容ではないだろう。そんなに感動するのなら、昭和64年に殉死したはずだろうに。今のうのうと生きている人間が、何が感動か?
「天皇皇后両陛下がサイパンを訪問されたとき」「敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという。」
この時、天皇は表情をやや硬くしたらしいが、島民がどういう意図で歌い、天皇がどう感じたかはわからない。実際に戦場になり、激戦で日本軍が玉砕した結果、島民が飛び降りなどで自決したわけだが、そういう中を生き残った人たちにとって、玉砕賛美の歌にどういう思いがあるのだろうか気になるところ。単純に「胸を打つエピソード」などと括られては迷惑だと思うんだがなあ・・・。
(参照)
フラダンスの歓迎に笑顔 「海ゆかば」には表情硬く
【サイパン28日共同】サイパン慰霊の旅の締めくくりとして28日午後、天皇、皇后両陛下が訪れた、島中心部の敬老センター。島のお年寄り約120人が、アロハシャツ姿でフラダンスを踊って歓迎し、両陛下は穏やかな笑顔を向けられた。
日本の歌数曲が披露されたが、軍歌「海ゆかば」の歌声が流れると、天皇陛下が表情をやや硬くする場面も。
両陛下は車いすのお年寄りら一人一人に、体をかがめて「お体は大丈夫ですか」「お元気でいてください」とねぎらい、涙を見せる人もいた。
(共同通信) - 2005年6月28日18時25分更新
(NHK「証言記録 兵士たちの戦争 第2回 北部ビルマ 最強部隊を苦しめた密林戦~福岡県・久留米第18師団」2007/8/13 23:00 BS-hi放映)で、元第18師団兵士による印象的な言葉があった。終戦と聞いて「言葉には出せなかったけど、皆、もうこれで弾に当たって死なんですむ、とほっとしとった。残念がってたのは後におったやつだけ。」とこんな感じの発言です。
終戦間際の本土決戦に動員されただけで海外の戦場や地上戦の経験を知らずに復員した人や、戦後世代は、言わば「後におった」のと同じです。
悲惨な戦場で殺し合いをさせられた経験もなく、ただ残念がっている。
それがこの部分にあたるような。
「8月15日に、心ある日本人は「海ゆかば」を起立して聴くべきである。「涙が出て困」るほどに感動するであろう。そして、あの日の「国民の心の一瞬」の「静寂」にさかのぼってみることである。そのようにして鎮魂を引き継いでいかなければならない。」
新保祐司氏は1953年生まれ。もちろん、戦争を体験してはいない。
【正論】文芸批評家・都留文科大学教授・新保祐司 「8・15」に思う
■「海ゆかば」を聴くべき日
■あの一瞬の「静寂」へ思い馳せて
≪「しんとせしものなり」≫
この7月に文春文庫に入った大佛次郎の『終戦日記』は、晩年に幕末維新期の歴史を叙述した傑作『天皇の世紀』をのこした大歴史家の眼をすでに予感させる。
その昭和20年8月15日のところに「予告せられたる十二時のニュウス、君ヶ代吹奏あり主上親(みずか)らの大詔放送、次いでポツダムの提議、カイロ会談の諸条件を公表す」とあり、翌16日のところには「小川真吉が小林秀雄と前後し訪ね来たる。昨日の渋谷駅などプラットフォームの人が新聞をひらいてしんとせしものなりしと。小林も涙が出て困ったと話す」とある。
小林のこの「出て困った」ほどの「涙」は、日本の歴史の悲劇を深く感じとった「心の一瞬」から流れ出たものであろう。親友河上徹太郎は、昭和21年の春に「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」を鋭く指摘して、「理窟をいい出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違いはなかった。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曾て持ったか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あったか、私は尋ねたい」と書いた。この「静寂」は、大佛の日記に書きのこされている「しんとせしものなりし」と符合する。
昭和20年8月15日とは、日本人にとって歴史上、空前の崇高なる「一瞬」を経験した日なのであり、その後毎年やって来るその日は、その「一瞬」を回想する日に他ならない。
≪百年を単位に歴史を見る≫
戦後生まれの私にとって、物心ついてからの8月15日は、NHKテレビで、正午をはさんで日本武道館において執り行われる「全国戦没者追悼式」の放送がある日であった。
丁度、この夏の日には、甲子園の高校野球をテレビで見ていることが多く、11時50分になると、野球の試合中継から短いニュースをはさんで突然、式典会場の映像に移る。その「一瞬」の感覚に、日常の中に歴史が出現してくるような思いがした。
しかし、ここ数年、河上のいう「十六日以後」に「いい出」された「理窟」の類が政治・外交問題などとからんでますます声高になり、その喧(やかま)しさの中に、この「一瞬の静寂」は埋没してしまっているように思われる。
また「全国戦没者追悼式」の放送の中でもきまって指摘される、遺族の高齢化や減少のことを考えると、8月15日は重大な岐路にさしかかっているといえる。というのは、遺族という家族や同時代を生きた関係者というものを超えて、日本人が「国民」として追悼を引き継いでいけるかという問題を突きつけられているからである。
直接的な関係のない世代が、歴史としての8月15日を追悼する深い心情を持っているであろうか。歴史と悲劇の感覚を失った今日の日本人には、引き継ぐ意志が果たしてあるのだろうか。かつて中村光夫は「百年を単位として」歴史を見ることの大切さをいったが、昭和20年から「百年」の後、つまり40年後に、日本人は8月15日を追悼する精神の高さを保持しているかどうか、このままでは極めて疑わしい。
≪鎮魂を引き継いでいく≫
ここで平成17年6月、戦後60年の年に、天皇皇后両陛下がサイパンを訪問されたときの胸を打つエピソードを思い出す。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという。予定になかったことであった。60年前の玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心から自(おの)ずから「海ゆかば」が湧きあがったのであろう。「海ゆかば」とは、そういう音楽である。
自ずから「海ゆかば」を歌い出すサイパン島の「島民」と比べるとき、「海ゆかば」を知らない、あるいは封印しつづけて経済的繁栄だけは手に入れた日本列島の「島民」とは、一体何か。河上の有名な「配給された自由」にならっていえば、そこには「配給された平和」が長くつづいていたにすぎない。戦後レジームからの脱却というようなことも、戦没者追悼の場で、自ずから「海ゆかば」が歌い出されるようになってからの話であろう。
8月15日に、心ある日本人は「海ゆかば」を起立して聴くべきである。「涙が出て困」るほどに感動するであろう。そして、あの日の「国民の心の一瞬」の「静寂」にさかのぼってみることである。そのようにして鎮魂を引き継いでいかなければならない。(しんぽ ゆうじ)
(2007/08/15 05:07)