備忘録のようなもの・能崎清次中将の経歴 | 誰かの妄想

備忘録のようなもの・能崎清次中将の経歴

能崎清次

石川県出身。歩兵科。

陸軍士官学校24期。


1941年3月1日、第7独立守備隊隊長。

1941年8月25日、少将に昇進。

1941年11月6日、長崎要塞司令官。

1942年10月13日、南方軍幹部候補生隊隊長。

1944年6月21日、独立混成第56旅団長。

1945年3月1日、中将に昇進。

1945年4月1日、第152師団長。


「別冊歴史読本 日本陸軍将官総覧」より


スマラン慰安所事件、別名、白馬事件(1944年2月)の加害者は、南方軍幹部候補生隊です。その事件当時の隊長が能崎清次少将(当時)です。


南方軍幹部候補生隊は、ジャワ防衛義勇軍等関係年表と全般年表 によると、1943年5月17日に新設され1945年5月17日に解散している。これがどうも上記経歴と矛盾するのだが、1942年10月から1943年5月までは南方軍直轄ではなく第16軍麾下だったのだろうか?よくわからん。


ちなみに、1944年6月21日から1945年5月17日までの南方軍幹部候補生隊長は、中村淳次大佐(歩兵科、京都出身、陸士27期、1944/8/1少将昇進)。

幹部候補生隊の隊長は、少将か先任の大佐をあてるらしい。つまり、歩兵団長か連隊長クラスということで、白馬事件を末端の部隊の暴走と呼ぶには、かなり語弊があるだろう。