南京事件1927・なんでもかんでも陰謀論
またも渡部昇一。
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nankinjiken1.html
まあ、1937年の南京事件に関しては今回はおいといて、これについて。
(引用)
・1927(昭和2)年に起こった南京事件(シナの国民革命軍が日本など各国の領事館その他を襲撃し、略奪・暴行・殺人を働いた事件)でも、裏で糸を引いていたのはソ連から派遣されていたポロジンという革命家であった。国民党の政治顧問をしていたポロジンが、コミュンテルンからの指示にもとづいて南京事件をひきおこしたことは当時から周知の事実である。
(引用終わり)
この事件について、現在に至るも確定的なことは言われていません。当時、ソ連の陰謀である、という主張があったのは事実ですが、その主張が正しいかどうかについてはわかってません。主張した欧米日の外交団にとって、中国とソ連が離間するのは歓迎すべきことであって、そのような直接的な利害関係者の主張を検証なしに信じ込むのはどうか、と思いますよ、渡部君。
さて1927年の南京事件ですが、背景を少し。
前年の1926年、中国は大きく二つに分かれていました。北京政府と国民政府です。この年の3月、国民政府では中山艦事件により蒋介石が国民政府の主導権を握り、4月には北京政府の段祺瑞が失脚し、張作霖の支配権が確立します。
1926年6月、蒋介石は北伐を開始(宣言は7月)、江西省、湖南省、福建省などを制圧していきます。
この国民政府は、孫文が1923年に成立させた第3次広東軍政府から継続しています。この当時の孫文が容共的な立場を取っていることは良く知られていますが、それは1924年の第一次国共合作にも示されてます。
1926年の北伐開始時点では、蒋介石の国民政府は、国民党・共産党の連合政権だったわけです。当然ながらソ連とも関係が深いわけですが、当時ソ連は北京政府とも関係を持ってました。ただし、それは他の欧米日諸国も同様です。南北いずれにより援助するかの違いはあれ、双方と外交関係を維持していたことは変わりません。
で、蒋介石ですが、彼自身は孫文と違い容共的ではありませんでした。
北伐開始から半年後の1927年1月、国民政府は武漢に移ります。この武漢国民政府の中心は国民党左派・共産党でした。これに対し、蒋介石は主導権を奪われまいと南昌に留まり、武漢への遷都に否定的な見解を示します。つまり、この当時、蒋介石率いる国民党右派と武漢国民政府の対立構造が出来上がっていました。
北伐の激戦地である武漢攻略にあたっては左派の功績が大きく、戦果が振るわない蒋介石は福建省の制圧を優先し功績を挙げようとします。
こういった状況下で北伐軍による南京総攻撃は開始されました。1927年3月15日のことです。攻撃部隊は、程潜率いる江右軍(湖南系、第6軍)が長江南岸を、李宗仁率いる江左軍(広西系、第7軍)が長江北岸を下流に向かって進軍、さらに長江下流からは何応欽率いる東路軍が迫る。
この南京攻防戦中の3月23日、上海で労働者が決起し上海特別市臨時政府が樹立されます。もちろん共産党系の組織です。
南京陥落は3月24日。陥落させたのは江右軍で、これは武漢政府側の軍でした。当初、国民政府軍は整然と入城したにもかかわらず、暴動が起こります。実行者が国民党兵士か共産党員か北京政府軍か、もよくわかりません。当時の報道では、国民革命軍の制服を着た湖南省方言を話す兵士だったそうです(当時の湖南省は武漢政府の支持地域)。この時、列国公使館が襲われ外国人6名の死者が出ました。これに対して英米が艦砲射撃を行ってます。
この暴動ですが、説としては自然発生説、北京政府軍の陰謀説、共産党の陰謀説、反動派の陰謀説などがります。どれも決め手には欠けますが、渡部君やネトウヨ、WIKIも共産党陰謀説を信じてます。ですが、確たる根拠はありません。
WIKIでは「あえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の陰謀といわれている。」と産経新聞や児島襄の小説をもとに書いてますが、そもそも南京を落としたのは、国民党左派・共産党の連合政権である武漢政府の軍であることを考慮してない様子。陰謀を謀るとすれば、その動機はむしろ蒋介石側にあったと言えるでしょう。
状況証拠ではあるが、共産党陰謀説の出所である武漢政府側第6軍第17師長の楊杰が、後に蒋介石に重用されている点は要注意。
さて、その後。
4月6日、欧米日の外交団は、南京事件をソ連の策謀として張作霖の北京政府に圧力をかけソ連大使館を強制捜査させます。その結果ソ連人23人を含む74人が逮捕されてます。これに対して、ソ連は4月9日中国と国交断絶します。
そして、直後の4月12日、蒋介石により上海クーデターが起こされ、都市の共産党勢力が駆逐されます。第一次国共合作は崩壊し、蒋介石の国民党政府は反共政権として再構築されます。蒋介石は改めて南京に国民政府を置きます(南京は蒋介石の国民党右派によって制圧)。
この後1927年7月、武漢政府から共産党が離脱し、残った国民党左派は9月、南京政府に合流。武漢政府は消滅します。
北伐はなお続きますが、国民政府は反共政権としての傾向が強くなります。
一方の共産党は表舞台から追い出され、農村などに支持基盤を求めるようになります。
1928年6月、蒋介石軍は北京に入城し、東北を除いた中国が南京国民政府によって統一されます。北京政府の張作霖は東北へ撤退途中に日本軍の謀略により爆殺され(これをソ連の陰謀という自慰史観が存在するが、お話にならない荒唐無稽さなので無視)、跡を継いだ張学良は1928年12月に国民政府への帰順を表明し、中国は完全に統一される(外蒙古を除く)。蒋介石の国民政府に対しては英米が大いに支援しますが、ソ連は介入できません。張学良が東北の鉄道回収を始めると、ソ連は東北に侵攻(1929中ソ紛争)までしています。ソ連と中国の国交が回復するのは、1932年12月12日、実質的には西安事件(1936)後になります。(2007/3/1誤字・事実誤認訂正)
こうして考えると、1927年の南京事件が果たしてソ連の仕業かどうかは非常に疑わしいと言えるでしょう。それまでは中ソ関係はまあ良好だったわけですから。
1927年の南京事件の真相は不明ですが、この事件の結果もっとも利益を得たのは、蒋介石であり、英米であったことは確かでしょう。
まあ、渡部君が基本的にトンデモだと知っていれば、「しょうがないやつだな」と笑って見てられるんですが。
WIKIの記事も、ちゃんとまともな史料を見て書いて欲しいものです。産経新聞と児島襄って・・・。
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