「最高裁憲法判断回避=推定合憲」とは、ステキな想像力ですねえ
前回のエントリー は、最高裁の判決に靖国賛成論者が大喜びして、「首相の靖国参拝が認められたー」とか言い出しそうだったので、書いておいたわけだが。
案の定、靖国参拝賛成の方からのTBをもらったので、ちょいと反論。
先に断っておくが、筆者は憲法や法律について正式に学んだことはないので、筆者の見解はおそらく一般的に得られるであろうと思われる法律知識・根拠に基づいて判断している。したがって、根拠となる事実に誤認があれば、判断を変更することがある。と予防線を張っておく。
さて、TBした方(松尾さん)の内容が、朝日論説への批判だったので、それをなぞっていく。
以下、朝日社説部分と赤字(ネット右翼のご期待通り)、松尾さん記事の引用を青字で表記。
(朝日社説)「憲法違反の首相の参拝は身内をどのようにまつるかを決める遺族の権利を侵す」
(松尾さん)「蓋し、遺族が「身内をどのようにまつるかを決める」ことと首相の参拝の間には何の関係もない。」
(意見)靖国神社は遺族からの合祀取り下げ要請を拒否して、勝手に戦死者の名前(個人情報)を宗教目的に利用している。これは、一個人と一宗教法人の争いであるが、首相が靖国参拝することは靖国神社側に有利に働くことは容易に想像できる。朝日社説がこの件を指しているとは言えないが、かといって、首相の参拝が何の関係もないとはいえない。
(朝日社説)「他人が特定の神社に参拝することで不快の念を抱いたとしても、ただちに損害賠償の対象にはならない」
(松尾さん)「常識だろう。」
(意見)常識だと思います。付け加えるなら、朝日社説だって、それがおかしいという文脈ではない。普通に読めば、首相と一般人を同列に扱うことに異を唱えている、と判断できる文脈である。松尾さんが上記部分のみ抽出したのが意図的でないとすれば、文章の読み方がおかしいのでしょう。
(朝日社説)「「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている」
(松尾さん)「その通りだ。では、正月の初詣は宗教活動か? スポーツ選手と自治体の役員が大会前に神社で戦勝祈願をすることは宗教教育なのか? そして、国務大臣や地方自治体の首長が神式やキリスト教形式の結婚式に参加することは宗教活動? 」
(意見)松尾さんが挙げている事例について、「初詣や戦勝祈願は神社でなければならない」とか「結婚式は新式でなければならない」と言えば、宗教活動ですね。初詣・戦勝祈願・結婚式・戦没者慰霊についても、それ自体は否定していない。それを行うにあたって様式を限定することを宗教活動としていると判断するのが自然。靖国問題が問題である理由のひとつは、戦没者慰霊はなぜ靖国でなければならないのか、という点にある。そこを無視しているのは意図的なのかどうなのか。
(朝日社説)「首相の行動が、この規定に反していないかどうかを厳格に判断する。それが裁判所の頂点に立つ最高裁の使命ではなかったか。 でなければ、首相らが政教分離に反する行いをしたと国民が考えたとき、どこに訴えたらいいのだろう」
(松尾さん)「これは「需要は供給を創出するはずだ」という噴飯ものの議論である。首相の参拝は政教分離に反すると極一部の国民が考えたからといって、その受け皿を司法が用意しなければならないとなぜ言えるのか。」
(意見)毎日新聞の世論調査
では50%が反対しているわけだが、それを極一部というのは、認識に問題があるのでは?
ところで、松尾さんのこの部分の批判は、「首相らが政教分離に反する行いをしたと国民が考えたとき、どこに訴えたらいいのだろう」という重要な部分に触れていない。好意的に解釈すれば、選挙で決めるべきとでも言いたいのだろうか。ただし、選挙で決められるのは立法機関であるのだが。
(朝日社説)「最高裁は97年、愛媛県が靖国神社に納めた玉串料などの公費支出について「宗教的活動にあたる」として、違憲判決を出した。政教分離原則を厳格に考えれば、靖国参拝についても違憲判断が出てもおかしくない」
(松尾さん)「要は、玉串料は現行憲法20条1項および3項、ならびに89条に少なくとも形式的には違反する(後は、その違反の程度が国民の法的確信から見て「憲法の逸脱」と言えるかどうかが問題となる)。これに対して、首相の靖国神社参拝は「国から特権を受けていることに等しい」とか「国家の宗教的活動に通じる」、あるいは、「公金の支出と同じではないか」等々の補助線をかなり強引に引かない限り形式的にも憲法違反と言える代物ではない。」
(意見)やはり読み方が足りない気がする。初めに批判ありきと言う姿勢で読んでいるのだろうが。
特に朝日社説からの引用の際に(政府と自治体、参拝と玉串料という違いはあるが、)を断り無く略しているのは問題であろう(「」での文章の区切りもいれておらず、また、前略や後略でもない。連続した文章であるかのように略している)。この部分を入れて「政府と自治体、参拝と玉串料という違いはあるが、政教分離原則を厳格に考えれば、靖国参拝についても違憲判断が出てもおかしくない。」と見ると、公費支出の有無に関わらず「一般人に対し、県が特定の宗教団体を特別に支援し、それらの団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす」ような行為が違憲である、との主張に読めるわけで、公費支出のみが憲法違反との「補助線をかなり強引に引かない限り」、特に不自然な社説とはいえない。
(朝日社説)「最高裁は首相の靖国参拝を認めたわけではない。首相には、それを忘れないでもらいたい」
(松尾さん)「日本でも同じ付随的審査制度を取るアメリカでも裁判所が(拘束力のある判例とはならない)傍論で憲法判断を示すことは(特に、最終審たる最高裁判所では)許されており実例も稀ではない。けれども、それを行うかどうかは裁判所の裁量に任せられている。ならば(明確に違憲の行為状態が継続し、かつ、それが全体としての法秩序を歪めているというのならばいざしらず)、元来、司法が口を挟むべきでない政治的価値判断や個人の信条にかかわる本件訴訟において憲法判断を禁欲した点において、蓋し、23日の判決は司法の分をわきまえた立派な判決と評すべきである。」
(意見)まず、この裁判が「政治的価値判断」との認識がどういう理由に基づくのかが不明。次に「個人の信条にかかわる本件訴訟において憲法判断を禁欲した」と言う個人は、原告を指すのか被告を指すのか不明で、被告を指すのなら、そもそも公私の別すら判断していないのだから議論の意味はないが、原告を指すのなら、憲法で保障された「個人の信条」に関するのだから憲法判断を禁欲したらいかんでしょ。
一番の問題点は、「(明確に違憲の行為状態が継続し、かつ、それが全体としての法秩序を歪めているというのならばいざしらず)」という記載だが、違憲かどうかを判断する裁判で、「明確に違憲の行為状態が継続」ってどういうこと?それって誰が判断するの?少なくとも原告は「明確に違憲の行為状態が継続」していると思うからこそ訴訟を起こしているはずだが。この文章ってどう読んでも、「明確に違憲の行為状態が継続」しているかどうかを判断するのは、原告でも、裁判所でもなく、俺だ、と言っているようにしか読めないんだけど・・・
ついでに「かつ、それが全体としての法秩序を歪めている」と言う条件も、普通「明確に違憲の行為状態が継続」していたら「全体としての法秩序を歪めている」と判断して問題ないでしょう。それにもし仮に「全体としての法秩序を歪めて」いないとしても、「明確に違憲の行為状態が継続」されているのを放置していい理由にはならないですね。
最後に松尾さんは、ちょっと気になる2つの説を提示して、「首相の靖国神社参拝は司法の判断から<聖域化>された」と主張する。結論には、全く同意できないが、提示された2説は面白い。
「(甲)合憲性の推定
裁判所が憲法判断を下すまでは法規や行政の行為は合憲と推定される。」
「(乙)首相の靖国神社参拝に対する憲法判断は実質不可能になった
再度記すが、「司法が解決できない紛争はこの世に幾らでも存在」する。そして、付随的審査制度を採る我が国では、本判決を踏まえる限り、今後、精神的苦痛をこうむったという理由で首相の靖国神社参拝を司法の場で争うことも極めて困難になった。」
「(甲)合憲性の推定」そのものについては、別に間違ってはいないと思う。しかし、今回の場合、同様の訴訟の下級審で違憲判断が出ている以上、合憲性を推定する根拠にはならないだろう。逆に合憲性を明言していない以上、下級審(訴訟自体は別だが)での違憲判断は覆されていないと解釈し、違憲判断を追認したとも取れるのではないか(この辺、法律の専門家だとどう考えるのかはわからないが)。
そもそも、合憲性の推定が強く疑われるからこそ、裁判になっているはずだが・・・
それでも、松尾さんは「蓋し、一昨日の最高裁判決によって小泉首相の靖国神社参拝はそれが公的行為であるとしても合憲性の推定が確認されたのだから。」と解釈してしまう。
この「松尾さん説」をとると、行政府はどんな違憲行動をとったとしても、明確に違憲であると傍論以外の判決文に記載しない限り(松尾さんによると大阪高裁の「「違憲の判断」部分など判決書のインクの紙魚と同じ
」だそうです)、自動的に合憲とみなされてしまうことになる。かつ、現状では権利を侵害されていない限り訴訟を起こせない、という制約があり、これが判決主文に憲法判断が書けない理由だと思うのだが。
「松尾さん説」では、行政府の違憲判断は無茶苦茶厳格であって、行政府は一般市民などよりはるかに手厚く保護されており、果たしてこれで立憲政治ができるのかと言いたくなるくらいである。
「(乙)」に関しては、正直言って問題外。そもそも「司法が解決できない紛争はこの世に幾らでも存在」するからと言って、それを放置していい理由にはならない。最高裁が憲法判断を示していない限り、「首相の靖国参拝の違憲性確認」を目的とする付随的審査制度を用いた訴訟は起こされて何の不思議もない。ただし、憲法判断を付随させるべき訴訟要因をどうするかが問題にはなるかもしれない。この点では「(乙)」の内容は興味深い。
しかしながら、松尾さん自身が記載している通り、「当該の最高裁判決は首相の靖国参拝を認めたわけではない(後略)」のであり、それが全てであろう。「首相の靖国神社参拝は司法の判断から<聖域化>されたのである。」などというのは、靖国賛成論者の願望に過ぎない。おそらくは、憲法判断を付随させるべき訴訟要因が変わるだけに過ぎないのだから。
(松尾さん)「畢竟、それは大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義が撒き散らしてきた憲法と司法の万能観の蒙昧を破る見事な判決だった。私はそう考える。」
(意見)まあ、考えるのは自由です。私はそう考えませんが。
しかしまあ、
・最高裁憲法判断しない→推定合憲→高裁の違憲判断無視
というのは、なんというか・・・。本気で合憲と考えるなら、最高裁で合憲判断しなかったことを悔しがるべきだと思うんだが。大阪高裁では違憲判断でてるんだから。
結局のところ、靖国参拝賛成派は実際に憲法判断したら違憲になると感じてるからこそ、今回の最高裁判決で「勝った」と思いたいのではないか?
最後に、
朝日の論説に賛同するかどうかは別にして、内容は特に変なことは言っていない。松尾さんは「嗤う」のだが、「当該の最高裁判決は首相の靖国参拝を認めたわけではない」という結論においては、朝日社説と同じなんだよね。
ま、個人の好き嫌いにとやかく言うつもりはないので、ネット上でくらい好きなだけ嗤えばいい、と思いますが。