靖国訴訟第二次大阪高裁判決に関する各紙の社説 | 誰かの妄想

靖国訴訟第二次大阪高裁判決に関する各紙の社説

靖国違憲判決 参拝をやめる潮時だ(朝日新聞2005/10/1)
http://www.asahi.com/paper/editorial20051001.html


【主張】靖国訴訟 ねじれ判決に拘束力なし(産経新聞2005/10/1)
http://www.sankei.co.jp/news/051001/morning/editoria.htm


社説1 重く受け止めたい靖国参拝違憲の判断(日経新聞2005/10/1)
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20050930MS3M3000P30092005.html


社説:靖国参拝訴訟 違憲判断は司法府の警告だ(毎日新聞2005/10/1)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20051001ddm005070135000c.html


[靖国参拝判決]「きわめて疑問の多い『違憲』判断」(読売新聞2005/10/1)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050930ig90.htm



表題だけでもわかるが、大雑把に各紙の対応を並べてみると、以下のようになる。(50音順)
朝日:判決を支持、参拝はやめるべき
産経:判決を不支持、参拝を継続すべき
日経:判決を支持、参拝は再考すべき
毎日:判決を支持、参拝は再考すべき
読売:判決に疑問


この大阪高裁のポイントは、3点ある。
・靖国参拝を「公的」と判断したこと
・「公的参拝」の目的が政治的であったこと
・「公的参拝」を違憲と判断したこと


「公的」と判定した理由としては以下の5点をあげている。
1.公用車を使ったこと
2.秘書官を伴ったこと
3.「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳したこと
4.首相に就任する前の公約の実行としてなされたこと
5.当初「私的参拝」と明言しなかったこと


また、「公的参拝」の目的が政治的であったことの理由としては、上記に加え、以下3点がある。
6.3度にわたって参拝した上、1年に1度参拝する意志を表明した
7.国内外の強い批判にもかかわらず実行し、継続しているように、参拝実施の意図は強固だった
8.国は靖国神社との間にのみ意識的に特別のかかわり合いをもった


さらに、「公的参拝」の効果については以下があげられた。
9.参拝を実行し継続していることにより、一般人に対して、国が靖国神社を特別に支援しており、他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こした


筆者個人の判断としては、1~4、特に4について、「公的」とみなす十分な理由になると考える。また、5についても、公職のトップにあるものが公私の区別を厳格に求められるのは当然であると考えるので、「公的」を示す証拠と言える。
また、4と9は、目的・効果を示す重要な内容であると考える。

1,2,4,5については、朝日新聞が、1,2,3,4については、毎日新聞が言及しているが、他の3紙にはその記載がない。社説だから省略したと言うわけでもなく以下の記事内でも、4の公約であったこと、について触れていない(日経新聞は記事を見つけられなかった)。


小泉首相の靖国参拝は違憲…大阪高裁が高裁初判断(読売新聞2005/9/30)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050930it04.htm

首相の靖国参拝「違憲」 大阪高裁判決 宗教的活動に当たる(産経新聞2005/9/30)
http://www.sankei.co.jp/news/evening/01iti003.htm


目的が政治的であるとの判断であるが、筆者は4だけで判断の理由となると考えるが、7についても政治的なものを感じさせる。これらについて、毎日・読売は6,7、産経は7,8、朝日は8について社説に記載しているが、これらは1~5とセットで載せないと、薄弱な根拠という印象を受ける。その意味で、産経・読売が、1~5について記載せず6~8について記載したのは意図的なものを感じさせる。一方、日経は9についてのみ記載している。これは、目的効果を示す上で社説での表現上効果的であると言える。

さて、「公的参拝」ならば違憲である、というのは、政教分離原則から筆者個人としては当然のことと理解している。朝日、日経、毎日の各社説においても、同様の流れで、参拝をやめるか再考するか(実質的には「やめろ」と同義)を述べている。日経は9を記載することで、「公的参拝」に効果のあったと言う判断を示した上で違憲という文脈となっている。

では、判決に不支持・疑問である、産経、読売はどういう論理か。


産経では、「昭和五十二年の津地鎮祭訴訟での最高裁大法廷判決は、国家と宗教のかかわりを一定限度容認する緩やかな政教分離解釈を示し、多くの下級審判決では、この最高裁判決が踏襲されてきた。今回の大阪高裁の判断は、この判例を逸脱している。」
と今回の判決の政教分離主義が厳格に過ぎることを示唆している。一方、日経では「最高裁は1997年、愛媛県が靖国神社などへの玉ぐし料を公費から支出したことは憲法の政教分離原則に違反する、との判決を出した。公費支出は「一般人に対し、県が特定の宗教団体を特別に支援し、それらの団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす」からである。」として、愛媛玉ぐし料訴訟(1997)を例示してる。
いずれも最高裁判決であるので、産経が言うように「多くの下級審判決」で津地鎮祭訴訟(1977)の「最高裁判決が踏襲されてきた」か、特に1997年以降もそうなのか、というのは大きな疑問である。今回の大阪高裁の判決については、津地鎮祭訴訟の最高裁判決を逸脱した、というより、愛媛玉ぐし料訴訟の最高裁判決を踏襲した、と言うべきであろう(それに津地鎮祭訴訟はA級戦犯合祀前で背景の状況が大きく異なっている)。
また、「判決文は小泉首相の靖国参拝の主たる動機・目的を「政治的なもの」と決めつけているが、裁判官こそ、中国や韓国などからの批判を意識しており、政治的意図を疑わざるを得ない。」としているが、「首相に就任する前の公約の実行としてなされたこと」を考えれば、動機・目的が「政治的なもの」とみなされてもやむを得ないであろう。政治的でないのであれば、「公約」にする意味がないのだから。
産経は、今回の判決を「ねじれ判決」と呼び、「このように、問題の多い高裁判断ではあるが、それが傍論である限り、何の拘束力も持たない。」と述べている。法律には詳しくないのだが、そもそも参拝の違憲性を判断するための訴訟はできないのではなかったか(訴訟を起こした人間に何らかの利害関係がないと駄目とかそんな感じで)。そうであれば、「傍論」としか出せないのは当然であるが、「何の拘束力も持たない。」というのは暴論であろう(法的拘束力がなく強制的にとめることができないにしても、裁判所として違憲であると認識しているとの意思表示である)。憲法遵守義務のある首相が裁判所により違憲とみなされている行為を実行するのは、法治国家としてどうなのか。どうしても不満なら、裁判を起こして「傍論」としてでも合憲の判断を得るのが法治国家としてのやり方であろう。
産経も、今回の判決が不満なら、自ら裁判を起こすべきであって、違憲とされた行為を行政の最高責任者にやらせようとするのは納得できない。


次に、読売であるが、目的が「政治的なもの」であったことに関する反論は、産経と同様であるので省略する。
「目的の政治性」の次に読売では「歴代首相は毎年正月に伊勢神宮に参拝している。これも国が伊勢神宮と「特別の関(かか)わり合い」を持っているということになるのだろうか。」と伊勢神宮参拝について述べている。読売の社説には、「公的」と判断した理由が記載していないのだが、「首相に就任する前の公約の実行としてなされたこと」を考えれば、伊勢神宮参拝が「公的」であることの根拠が弱くなり、違憲とは考えにくくなる。
また、伊勢神宮参拝については、筆者の知る限り、そもそも訴訟は起こされておらず、違憲・合憲の判断も出ていない。つまり、伊勢神宮参拝にしたところで、別に合憲とされているわけではない。
したがって、伊勢神宮参拝は何の比較の対象にもならないのである。
津地鎮祭の例については、産経と同様なので略すが、一点「国と宗教とのかかわり合いを全く許さないのではなく、国の行為の目的と効果にかんがみ「社会通念」に従って客観的に判断すべきだ」について。
目的が政治的であったこと及び「参拝を実行し継続していることにより、一般人に対して、国が靖国神社を特別に支援しており、他の宗教団体とは異なり特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こした」という効果を及ぼしたことを考えれば、「社会通念」上許されない範囲と判断されてやむを得ないであろう。この考え方は「愛媛玉ぐし料訴訟」と同じである。読売の記事には「愛媛玉ぐし料訴訟」についても、「「公的参拝」の効果」についても記載されていないにも関わらず、「客観的に判断すべきだ」と述べている。客観的に判断した結果がこの判決だったとも考えられるのだが。
「傍論」についても、産経と同様なので省略する。


最後に判例。これについては、(前日の東京高裁判決を除くと)朝日・毎日に記載がない。
「小泉首相の靖国参拝をめぐる訴訟は全国各地で起こされ、政治運動化しているが、多くの裁判官は憲法判断に踏み込まず、参拝を認める判断を下している。小泉首相は今回の大阪高裁の違憲判断に惑わされず、堂々と靖国参拝を継続してほしい。」(産経)
「小泉首相の靖国参拝をめぐる訴訟の判決で、4件は参拝が公的か私的かの判定をしていないが、公的と認めたのはこれで4件になり、私的と判断したのは、大阪高裁の前日に出た東京高裁の判決を含め2件だ。」(日経)
「小泉首相の靖国参拝をめぐっては、3件の控訴審判決と7件の1審判決が言い渡されている。今回の大阪高裁判決と昨年4月の福岡地裁判決以外は、いずれも憲法判断以前の法律判断で請求を棄却している。」(読売)


これらを列挙してみるとこうなる。
4件:公的・私的の判定せず
松山地裁(2004/3/16坂倉充信裁判長):憲法判断せず
那覇地裁(2005/1/28西井和徒裁判長):憲法判断せず
東京地裁(2005/4/26柴田寛之裁判長):憲法判断せず
大阪高裁(2005/7/26大出晃之裁判長):憲法判断せず
4件:公的と判定
大阪地裁(2004/2/27村岡寛裁判長):憲法判断せず
福岡地裁(2004/4/7亀川清長裁判長):違憲
千葉地裁(2004/11/25安藤裕子裁判長):憲法判断せず
大阪高裁(2005/9/30大谷正治裁判長):違憲
2件:私的と判定
大阪地裁(2004/5/13吉川慎一裁判長):憲法判断せず
東京高裁(2005/9/29浜野惺裁判長):憲法判断せず、ただし「公的参拝であれば違憲の可能性がある」と付加


産経では「参拝を認める判断を下している」としているが、これには疑問がある。上記を一目見てわかるが、公的・私的を問わず合憲の判断はひとつもない。原告がすべて敗訴しているのは、「参拝を認め」ているのではなく、原告に民事訴訟上、請求の資格がないためである。この理由により、読売に述べられているように「いずれも憲法判断以前の法律判断で請求を棄却している」のである。したがって、別に参拝を認めているわけではない(強いて言えば黙認だが、黙認であれば「判断を下している」という言い方は適切とは思えない)。
上記の結果を考慮すれば、「公的参拝であれば違憲であり、私的参拝であっても合憲とは言えない」と考えるのが妥当であろう。

形式上国の勝訴であるため国は上告できないという、産経の言う「ねじれ判決」であるが、これを「上訴権を封じる」と呼ぶのであれば、そもそも「国家が違法なことをしているのに、法的利益の侵害がなければ誰も争えないという」(東京新聞社説(下記参照)東大の奥平康弘名誉教授の言より抜粋)のが「おかしい」のではないか。


(参照)
靖国参拝訴訟 高裁判断真っ二つそれでも『違憲』に重み(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051001/mng_____kakushin000.shtml