真夜中の長崎を訪ねた。
ずっと行きたかった土地だ。
でも、仕事の制約上、昼間には行けなかった。
仕事が終わってすぐ、真夜中の高速道路を走らせてたどり着いた。

真っ暗な平和公園を歩いた。
夜中の1時、誰もいなかった。
平和の像があった。
右手は天を指し、左手は地を指し、右足は組まれ、左足は地についていた。
それぞれ、原爆と、平和と、祈り(静)と、救い(動)を意味するという。
1955年に作成された渾身気迫の彫刻作品だ。
平和への祈りを表すというその顔は暗くてよく見えなかったのが、残念だった。
私はその像の前で、一人祈りを捧げた。

飾られたたくさんの折鶴たち。
修学旅行生たちが折って、飾っていった物だ。

爆心地の石碑を訪ねた。
この上空480mで原爆が炸裂した。
直下の町は、防空壕に偶然入っていた9歳の少女を除き、全員が即死した。
熱線で体の内部まで焼かれた人たちは、水、水と叫びながら、川に入って死んでいった。
その川があった。
その人たちの渇きを癒すための泉が作られていた。
真夜中に、静かに泉の水の音が響いていた。

最初は小倉に投下する予定だったファットマン。
小倉の上空を午前9時に3回旋回しても雲が切れず、第2予定地だった長崎に向かったB29。
長崎も雲に包まれていた。
もし地上が見えずに投下ができなかった場合には、太平洋に捨てるように命令されていたという。
長崎の上空を3回旋回しても雲が切れず、投下を諦めようかと思っていたそのとき、一瞬雲の隙間が開き、その下に三菱の兵器工場の煙突群が見えた。
その雲の隙間を狙って上空9000mから投下されたプルトニウム原爆は、地上480mで炸裂した。
それは、長崎の中心地から3kmも離れた場所だった。
激しく上昇するきのこ雲は、3分間のカラーフィルムに収められた。

1945年8月9日午前11時2分
その時刻は、永遠に忘れ去られることはないだろう。

爆心地から500mの地点には浦上天主堂があった。
隠れキリシタンが弾圧され多く殺された浦上の地。
明治5年に起きた浦上4番崩れで信徒たちはまたも迫害され、殺された。
彼らが立てた日本で最大のカトリック教会。
教会は、中で祈りをささげていた人たちもろとも原爆で破壊された。
日本で最大のキリスト教の聖地が、キリスト教国によって投下された原爆の直下だったという、歴史の皮肉ともいうべき悲劇。

まさしく、日本のキリスト教は、メシアを日本に迎えるために、1549年のキリスト教伝来以来の400年の迫害の歴史の最後として、莫大な犠牲の代価を支払ったのだと思う。
この間、実に396年間。
ローマでキリスト教が国境となったのは西暦392年。
これらの数字の酷似には、原理講論に記述された歴史の同時性を感じずにはいられない。

真夜中の浦上天主堂を訪ね、祈りを捧げた。
拷問石の上に正座した。
この石の上で正座させられ、18日間、倒れるまで裸で寒晒しにされた22歳の女性、岩崎ツルの信仰に思いを馳せた。
彼女は、命を危険に晒されても、最後まで棄教しなかった。
彼らの最後の犠牲があって、ついに日本に信教の自由がもたらされた。
明治維新から数年がたってのようやくのキリスト教解禁であった。

怒りの広島、祈りの長崎。
その言葉の意味をかみしめた。

人類最後の被爆地。
平和公園の看板に書かれた言葉に重みを感じた。
2つの原爆の凄まじい破壊力におののいた日本の軍部。
こんな爆弾を日本中に落とされまくったら、文字通り、日本は滅亡する、そう思った。
世界の一等国、神国日本を自負していたそのプライドをようやくくじかれ、昭和天皇のご聖断によるポツダム宣言受諾の無条件降伏を、ついに承認した。
それにより、1946年に計画されていた日本本土の上陸作戦(ダウンフォール作戦)の悲劇が回避され、予定されていたソ連による北海道・東北占領は実行されず、分断国家の悲劇が起きなかったのは事実かも知れない。
でも、長崎の原爆で15万人もの人が亡くなったことは、痛恨の事実であり、悲劇であった。
ただただ、涙するしかない。
世界で唯一の被爆国、日本。
この悲劇を、他の国の人たちには経験させたくない。
もう、私たちで十分。
その祈りを、長崎の地で、肌で感じた。

真夜中の長崎。
歴史の町、長崎。
豊臣秀吉による26聖人の殉教の地、鎖国時代に出島があって蘭学が盛えた地、幕末に坂本龍馬が活躍した地、250年間潜伏していた「信徒発見」で西洋世界に衝撃を与えた地、明治に隠れキリシタンが迫害された地、そして人類史上2番目の原子爆弾が投下された地。

3時間の滞在だったが、私の記憶に永久に残った。
本当に、ありがとう、長崎。